「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・?
・・・始皇帝=シコウテイ=思考綴=試行綴=嗜好定=指向定・・・「呂不韋」・・・「太安万侶の不意・符意」・・・法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?
「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・?
「郢書燕説(韓非子外儲説左上)」・・・?
ーーーーー
呂氏春秋
中国の戦国時代末期
秦の呂不韋が食客を集めて
共同編纂させた書物
呂覧(リョラン)とも
秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
天文暦学、音楽理論、農学理論
など自然科学的な論説が多く
自然科学史において重要な書物
↓↑
呂不韋
賓客を延き集め
各々聞く所によりて
「月令」を選し
円道を明らかにし、人事を証す
天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
の類を載せ
名づけて
「春秋」という

「李氏」の末裔も・・・法家の「李斯」ではない・・・?
「郢書燕説(韓非子外儲説左上)」・・・?
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呂氏春秋
中国の戦国時代末期
秦の呂不韋が食客を集めて
共同編纂させた書物
呂覧(リョラン)とも
秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
天文暦学、音楽理論、農学理論
など自然科学的な論説が多く
自然科学史において重要な書物
↓↑
呂不韋
賓客を延き集め
各々聞く所によりて
「月令」を選し
円道を明らかにし、人事を証す
天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
の類を載せ
名づけて
「春秋」という

↓↑
呂不韋=「韓」の大商人、
「呂不韋(リョフイ)」は関係アリやナシや・・・?
↓↑
大韓帝国(テハンジェグク)
1897年~1910年まで
李氏朝鮮の使用国号
↓↑
周王室
武王より三十七世八六七年に滅亡
(前256)
↓↑
秦
昭襄王死後
子楚の父
孝文王が即位・・・孝文=コウブンオウ
=「構文・公文・弘文・行文」意宇
子楚が太子となった
趙国は
子楚の妻子を
鄭重・・・鄭=奠+阝=ねんごろ・テイ・丁寧
通仮字「丁」
異体字「𨞀・奠・郑」
鄭袖=楚の懷王の寵姫
重=かさねる・かさなる・チョウ・ジュウ
に送りとどけてきた
孝文王は一年にして死去し
子楚=荘襄王が位につく(前250)
呂不韋を
丞相(宰相)に任じ
文信候に封じ
洛陽の十万戸をあたえた
前249年
魯が
楚にほろぼされた
魯・・・魯=魚+日=ロ・・・呂・侶・盧
周公より三十四代、八五〇年
↓↑
荘襄王
在位三年にして死去(前247)
十三歳
太子の
政=秦王が即位・・・始皇帝・・・指向定
政治は母の
太后(荘襄王の后)
と
呂不韋
が執政
呂不韋は相国(宰相)
仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
太后は
むかしの
呂不韋の愛人
呂不韋の執政時代
韓、魏、趙の領土の一角を奪い
秦の領土の東端は拡張し
斉国と接した
各地から食客を招き三千人
食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
それを編集して
二十余万字にのぼる
書物を編纂
『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
(前239)
咸陽(カンヨウ)の
市場の門前に展示し
賞金をかけて内容を批判させた
「一字でも増減できる者があれば
千金をあたえよう」と
これが
「一字千金」の由来
呂不韋と太后の関係が噂になり
別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
男に宮刑をほどこしたことにし
宦官に仕立て
太后の側近に侍らせ寵愛させ
二人の子を出産
太后は離宮にかくれ
仕事は
その男によって決裁させ
長信侯の位・・・長信侯(のぶながこう)?
をたまわり
下僕は数千人
食客も千余人におよんだ
政が即位して
九年(前239)
二十二歳
成人の冠礼をおこなった
これをおそれた
長信侯が
反乱をおこして
王宮を攻めて
占拠をくわだてたが
密告され
王は
兵を発し一党をほろぼし
長信侯らを
車裂(シャレツ)の刑にした
太后の
不義の
二子も殺された
事件に
呂不韋も関係したが
王は
呂不韋
が先王につくした
大功をおもんばかり
不問に付した
翌年に
呂不韋の職(相国)を免じ
都から追放し
洛陽の領地においたが
呂不韋には声望があり
洛陽におもむく賓客は多かった
秦王政は謀叛をおそれ
蜀にうつることを命じた
呂不韋は毒をあおって自殺
↓↑
秦
燕に侵攻
↓↑
燕の太子の
「丹」は
かつて
趙に人質となっており
趙でうまれた
秦王政
とも、仲がよかった
政が即位し
「丹」は秦へ人質となったが
秦王政の待遇はつめたく
「丹」はうらんで逃げかえった
秦の将軍の
樊於期(ハンオキ)が
罪をえて
燕に逃げ
「丹」は、これを館舎にむかえ厚遇した
秦王政の怒りを恐れ
群臣がいさめたが、
「丹」太子は聞かなかった
更に
「丹」太子は勇士をもとめて
荊軻(ケイカ)という男をえ
上卿(上席の大臣)とした
「丹」は
荊軻に
秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
↓↑
荊軻は
衛の人で
読書と撃剣をこのみ
感情的性格の男で
燕にうつってからは
町の酒飲みたちと交遊し
遊歴した土地で
賢人や豪傑や長者と親交した
↓↑
荊軻は
樊於期(ハンオキ)の首と
燕の
督亢(トクコウ)の
地図を持参したい、と願った
督亢は
燕の要地にして
秦がもっともほしがっている場所
樊於期(ハンオキ)の首・・・
「丹」太子は
自分をたよってきた樊を
私利のために殺すには忍びなかった
荊軻は
樊於期に会って、うったえた
秦においては
樊の父母をはじめ
一族をすべて殺し
樊於期の首に
莫大な懸賞をかけている
一言にて燕国の憂いをとき
樊於期将軍のあだをむくいる策・・・
樊於期将軍の首を
秦王に献じたなら
秦王は
よろこんで自分を引見するハズ
その時
自分は
左手に秦王の袖をとり
右手で秦王の胸を刺す・・・
これを聞いた
樊於期は
片肌をぬいで腕をにぎり
みずから首はねて死んだ
「丹」太子は駆けつけ
屍体にうちふし
大声をあげて泣いた・・・
↓↑
首を箱にいれて封じ
鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
毒薬を刃にぬって人にためし
秦王暗殺支度はととのえた
↓↑
燕のうまれで
秦舞陽(シンブヨウ)という勇士は
十三歳で殺人を犯した無頼
「丹」太子は
秦舞陽を、荊軻の副え人とし
秦舞陽をともなわせて出発させ
事情を知っている者たちは
白い装束(喪服)を着て見送った
↓↑
易(エキ)水のほとりまで
荊軻は
筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)・・・筑紫
筑は神功皇后が新羅討伐の占いに使用した
に和して歌った
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
↓↑
秦につき
千金のねうちの贈りものを
王の側近にささげ、来意を通じた
秦王政はよろこび
威儀をただして
燕の使者を引見
荊珂は
樊於期の首箱を持ち
秦舞陽は地図の小箱をささげた
すすんで陛(きざはし)にいたると
秦舞陽は
顔色をかえて
ふるえだし・・・
↓↑ 大化の改新の実行犯
「佐伯子麻呂」の様子、態度に類似
古麻呂とも
姓は連
佐伯丹経手の子」とする系図がある?
「佐伯の丹の経の手」・・・「丹」の経?
「佐伯 丹経手=姓は連
内臣・佐伯戸難目の子」
とする系図・・・?
↓↑ 佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂(古麻呂)」
となめ にへて こまろ
「佐伯子麻呂」の
兄弟は
東人
子麻呂
百枝
子は
大目
歳主
645年11月(九月)
中大兄皇子に命じられ
阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
古人大兄皇子を攻撃
皇子とその子息を殺害・・・
↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・丹後・丹波・但馬
群臣があやしんだので
荊軻は顧みて笑い
「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
いまだ天子に見(まみ)えたことなく
ゆえにおそれ、ふるえたのでございます
願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
「その者の持っている地図を見せよ」
↓↑
秦王の言により
荊軻は地図の巻物を収りだし
王にささげ
王が地図をひらき
図のおわるところに
匕首(あいくち)があらわれた
荊軻は
左手で秦王の袖をとらえ
右手に匕首を持って、突きだした
おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
王は剣をぬこうとしたが
剣は長く鞘(さや)から抜けず
鞘に収まったままにぎった・・・
あわてて剣を竪(たて)にしたまま
すぐには抜けなかったが、抜刀して
荊軻と対峙した・・・。
↓↑

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