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<<   作成日時 : 2017/08/12 23:43   >>

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 ・・・「つつみ=堤・堿・陂・坡・塘・包」・・・漢字を検索して居て、偶々、目に就いたので調べていたら・・・1619(元和五)年、福島正則、本拠広島城の無断修築をめぐる武家諸法度違反で所領を没収され、信濃川中島4万5000石に移封」、「徳川家康重臣・本多正純の謎の失脚、語り継がれる宇都宮釣り天井事件」、「本多正純=江戸幕府の老中・下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第二十八代宇都宮城主)・本多正信の長男で正信系本多家宗家二代・徳川家康の側近・徳川秀忠の代に失脚」・・・
 あまり面白くもないYouTubeの映画、「宇都宮釣り天井の謎 1996.4.30ABC松竹」、「大型時代劇スペシャル・市川染五郎・南野陽子・田村英里子・宇津井健・平幹二朗・花沢徳衛・石橋蓮司・蟹江敬三・真弓明信(阪神)・ 丹波哲郎・金田龍之介」などの懐かしい役者名が出てきた・・・
 で、「忍者がえし・水の城」をみてしまったが、みんな呆れるほどの「大根演技」・・・
 「二代将軍徳川秀忠の時代、信濃に追放された福島正則の世継・正勝が、館に侵入した忍者に殺され、暗殺の黒幕は福島家の没落を計る本多正純。正勝の近習・高月彦四郎は敵襲に備え、館を改築、"水の砦"を建設。敵方は執拗に来襲。正則は本田を失脚させるため、将軍秀忠の暗殺を決意、彦四郎が豊臣秀吉の実子であることを打ち明ける(以上、時代劇専門チャンネル広報資料より引用の更なる孫引・第5回時代小説大賞受賞作品のドラマ化」・・・???
 人間関係って、複雑で奇妙、奇天烈・・・以下、ボクが「元和五年=1619年」に混乱し、検索した記録を添付したモノ・・・
ーーーーー
 元和五年=1619年・・・日本年号
 ↓↑
 「元和郡県志(ゲンナグンケンシ)」
  元の
   和(倭・やまと)の
    郡(訓)の
     県(懸)の
      志(個々賂指示)?
 ↓↑
 「元和郡県志」は
 唐代の地理書
 現存する唐の全国的な地誌としては
 敦煌から発見された残巻を除くと唯一のもの
 宰相の
 李吉甫(リ-キッポ・李 徳裕の父)
 が撰述し
 元和八年(813年)・・・元和八年(813年)
 憲宗
 に進上
 はじめの書名は
 『元和郡県図志』
 47の鎮ごとに図が附属していたが
 図は後に失われた
 もと40巻(および目録2巻)
 うち34巻が現存
 ↓↑
 元和郡県図志・巻第1〜40・李吉甫 撰
 序
 孫星衍
 巻第19,20,23,24,35,36を欠く
 唐装印記
 支那銭恂所有銭恂旧蔵附
 元和郡県
 図志闕巻逸文
 元和郡県補志1〜9(厳観輯)
 巻第1〜4・関内道1〜4
 巻第5〜11・河南道1〜7
 巻第12〜15・河東道1,3〜5
 巻第16〜18・河北道1〜3
 巻第21〜22・山南道2-3
 巻第25〜30・江南道1〜6
 巻第31〜33・劒南道上,中,下
 巻第34,37〜38・嶺南道1,4〜5
 巻第39〜40・隴右道上,下
 ↓↑
 元和郡縣圖志
 作者 李吉甫
 成書年代 唐
 版本 暫缺
 ↓↑
 地理志・季漢書
 巴郡
 後漢の頃
 巴東、巴郡と合わせて巴郡
 興平二年
 趙韙の献言により
 巴を分割
 墊江以北を巴郡
 龐羲を
 太守に任じて
 安漢・・・・・・安漢→安韓→安加羅?
 にて治めさせた
 江州より臨江にいたるまでを
 永寧郡に
 朐忍から魚復に至るまでを
 固陵郡とした
 後、
 建安六年
 魚復の・・・魚の復(かえる・かえす・また・フク)
 蹇胤の提案で
 巴を巴西
 永寧を巴郡
 固陵を巴東郡に改名
 巴を三巴と呼ぶ
 巴郡は
 東南は涪陵に接し
 北は巴西、広漢に接す
 東は巴東、西は江陽に接す
 ↓↑
 巴子の時代
 江州を治所
 或いは
 墊江、平都を治所とすることもあった
 沮(低湿地)で牧畜が行われ
 沮は東突薢の下にある
 枳には先王の諸陵墓がある。
 江州
 郡治
 漢の時代
 郡治は
 巴水の北に置かれ
 巴水北の旧城には
 柑橘官が置かれていた
 後に、南岸に移った
 李厳は城を修築し
 これ以降、
 長く郡治は
 李厳城に置かれ続けた
 李厳の江州城
 県の北には
 稲田
 茘枝園
 があった
 大姓は
 波
 詵・・・詵=言+先=とる・シン・セン
       詵詵(シンシン)=数が多い
                多くの人が集まるさま
 毌、謝、然、蓋
 楊
 白、上官、程
 常・・・常陸=ひたち=日立
     常識=ジョウシキ=定式
 ↓↑
 墊江
 江州の西北四百里
 諸水の交わるところ
 桑畑があり
 養蚕
 牛馬を産
 大姓は
 黎、夏、杜
 の三姓
 ↓↑
 臨江
 枳の東四百里にあり
 朐忍と接している
 王莽
 が
 監江と名を改め
 後漢に至り
 臨江に戻った
 ↓↑
 塩官があり
 監、塗
 二渓があり
 一郡の仰ぐところ
 富豪の家にも塩井があった
 塗渓は県の東南八十里にある
 塗山より来ている
 東晋の頃に
 臨江の全ての
 塩井を
 官の支配下に入れられていなかった
 大姓は
 厳・・・・・・・・・厳島(いつくしま)?
 甘、文、楊、杜・・・甘(あまい)?
           文(あや・ふみ)?
 ↓↑
 羅憲が永安に包囲された時
 囲みを突破した参軍の
 楊宗
 呉に仕えた
 甘寧は・・・・・・・甘寧・・・安寧・丁寧・叮嚀?
 この臨江の大姓
 ↓↑
 枳=木+只(口八)・・「からたち・キ・シ
             木の名
             蜜柑(みかん)科の落葉低木
             橘(たちばな)に似て
             棘(とげ)が多く、秋に実をつける
             未熟の実は薬用
 江州の東四百里にあり
 涪陵水の合流点
 土地は痩せているが
 人士は多かった
 大姓として
 章、常、連、黎、牟、陽・・・・連=むらじ
                陽=煬・・・「煬帝」
 郡の冠族であった
 ↓↑
 平都
 季漢
 が置いた県
 延熙・・・年号
 ↓↑   三国時代、蜀の君主
 ↓↑   劉禅の治世で使用
      元号238年〜257年
      延熙十二年
      麴山の戦い
      曹爽の失脚
      夏侯霸の来降
      247年丁卯
      魏=正始八年 少帝・曹芳
      蜀=延熙十年 後主・劉禅
      呉=赤烏(セキウ)十年 大帝・孫権
      二月
      庚午の日(一日・朔、日食)?
 ↓↑   ↓↑
      247年丙寅(己・丙・甲)?
      002月辛丑(癸・辛・己)?
      003日庚辰(乙・癸・戊)?
 ↓↑   ↓↑
      247年2月1(己卯)日・月曜日・先負
        神功皇后47年1月9日
      庚辰の日(247年2月2日)火曜日・仏滅
 ↓↑   ↓↑
      正始八年春二月朔
西暦247年3月24日(ユリウス暦)の日食
が三國志と晋書に記録
     「正始八年春二月朔
      日有蝕之
     (『三國志』巻四 魏書四「三少帝紀」)
     (『三國志』巻十四「程郭董劉蒋劉伝」)
      是時,曹爽專政,丁謐,眷菫等輕改法度.
      會有
      日蝕變
      詔羣臣問其得失
      濟上疏曰
     「昔大舜佐治
      戒在比周=周公輔政
      慎于其朋=齊侯問災
      晏嬰(アンエイ)
      ・・・晏=日+宀(ヽ冖)+女
         嬰=貝(目ハ)+貝(目ハ)+女
      對以布惠=魯君問異
      臧孫答以緩役
      應天塞變,乃實人事
 ↓↑   ↓↑
   247年丁卯(甲・ ・乙)
003月癸卯(甲・ ・乙)
024日庚午(丙・ ・丁)水曜日・友引
     「西暦247年3月24日の日食は
      北九州でも深食
      北九州市や北九州沿岸の島では
      皆既の可能性
      (国立天文台報 第14巻・15〜34(2012))」
 ↓↑   ↓↑
西暦  247年(ユリウス暦)=卑弥呼が
                    狗奴国王
                    卑弥弓呼と戦う
      西暦  247年(ユリウス暦=魏志)
      神功皇后47年閏2月1日
      ↓↑
      魏の正始十年正月
      司馬懿・・・懿徳天皇=第四代天皇
            大日本彦耜友尊
           (おおやまとひこすきとものみこと)
            安寧天皇の第二皇子
      の政変で
      曹爽
      何晏(カアン)らは族滅
 ↓↑・・・何の晏?
     後漢の大将軍、何進の孫
     字は平叔
     母の尹氏(曹操の妾)
     曹操の娘
     金郷公主を娶った
 ↓↑  晏=日+宀(ヽ冖)+女
 年間に廃止
 大姓は
 殷、呂、蔡氏
 ↓↑
 楽城県
 州の西三百里にある県
 季漢が置いたが
 延熙十七年
 ↓↑ 第二次北伐
 ↓↑ 張嶷の帰還
    李簡の降伏
    延熙十七年春正月
    姜維が成都へ と帰還
    越嶲太守
    張嶷が十五年間の任を終えて
    成都に帰還
    盪寇将軍を拝命
 ↓↑ 北伐の是非についての議論
 に省かれる
 ↓↑
 陽関
 江州の東
 塗山に置かれた関
 劉備が要衝として設けた
 東に銅鑼峡
 劉備は関を置いて守りとした
 督江州
 」芝
 は、
 この陽関に駐屯
ーー↓↑ーー
 陳寿
『三国志』
  (」艾伝
  鍾会伝
  後主伝
  諸葛亮伝
  姜維伝
  」芝伝)
 常璩
『華陽国志』(蜀志)
 房玄齢
『晋書』(地理志上)
 顧祖禹
『読史方輿紀要』(巻六十七、七十三)
 ↓↑
 李吉甫
『元和郡県図志』(巻三十二)・・・元の和の郡の県の図志?
 ↓↑
 酈道元
 『水経注』(巻三十三)
 ↓↑
 郫県で出土した
 景耀四年製の銅弩機には
 「十石機」という銘が刻まれ
 季漢で 用いられた強弩が十石の強さであった
 李吉甫
 『元和郡県図誌』(巻三十三)・・・元の和の郡の県の図志?
 曹操は、
 杜濩を巴西太守
 朴胡を巴東太守
 袁約を巴郡太守
 にした
ーー↓↑ーー
 元和 (漢)=後漢の章帝
       劉炟時代の元号
       (84年〜87年)
 元和 (唐)=唐朝の憲宗
       李純時代の元号
       (806年8月〜820年12月)
 元和 (日本)=後水尾天皇時代の元号
       (1615年7月13日〜1624年2月30日)
ーー↓↑ーー
 元和偃武(エンブ)=元和一(1615)年
           大坂の陣が終り豊臣氏の滅亡後の平和
      偃武=武器を伏せること・軍事衝突の終了
         周書・武成篇の
        「王来自商、
         至于豊。乃偃武修文。
        (王
自(おのずから・みずから)
         商(あきない)
         来たり
         于豊に至る・・・・・于
         乃ち武を偃(ふ)せて文を修む」
         武器を偃(ふ)せて武器庫に収める事
   偃(エン・ふす)=イ+匚+日+女
      ふす(臥)
      たふる、たふす(僵・仆)
      なびく、なびかす(靡)なびき伏す
      したがふ(服)
      いこふ(息)
      やすむ(休)
      ふせる(伏・臥)
      やむ(止・已)
      おごる(驕)
      せく・ゐせき(堰)・・・堰=十一匚日文
      かはや(廁)
      むぐらもち・どぶねずみ・もぐら(鼹)
 ↓↑
 「元和郡県誌」には
 「梁は汶川県を置き、
  県は西の汶水=岷江により名を為す」
 「汶水= 岷江(ミンコウ・ビンコウ)
    =長江の支流で、岷江と金沙江が合流し長江が始まる」
 「戦国時代末期に
  秦によって建設された
  水利施設・都江堰(トコウエン)があり
  岷江の水を...
ーー↓↑ーー
 レファレンス事例集(長野県)より抜粋、添付
 県立長野図書館
 ↓↑
 『長野県上高井郡誌』(上高井郡教育会編 千秋社
  1999上高井郡教育会刊・1914( 大正3)年の復刻)
  「高井村 福嶋城址」の項目に
 「大字高井字堀之内にあり。
  元和年中、・・・・・・・・・元の和の年中?
  福嶋正則の築く處なり。
  始め回字形を為して、
  四壁に高塁を築き
  塁上に...
 ↓↑
 福島正則が
 元和(げんな)元年・・・・・・・元の和の元の年?
 信州川中島へ
 改易配流された際
 居住した屋敷の
 場所
 形態
 答
 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』
 (平凡社 1979)[N290.3/54]881pに
 「福島正則屋敷跡」の項目
 現在の
 上高井郡高山村高井堀
 形態
 『長野県指定文化財調査報告 第5集』
 (長野県教育委員会編・刊 1974)[N709/24/5] 20pの
 「福島正則屋敷跡」に
 「この史跡は
  福島正則がその晩年の
  ↓↑
  元和五年〜寛永元年まで約五年間・・・元の和の五の年?
  ↓↑
  幕府の監視のもとに配流に近い生活をした屋敷で
 ・・・その規模は県道須坂山田線に添い
 東西一〇四、五メートル(五七、五間)、
 南北七二、七メートル(四〇間)、
 面積七六アール(七反六畝)
 もと四方に高い土塁を築き
 その上に松・竹・桜等を植え、
 塁の外には空堀をめぐらしてあった」
 ↓↑
 福島正則
 が
 高井郡へ改易されたのは
 元和五年=1619年・・・・壱千陸百壱拾玖のネン
 ↓↑
 『長野県百科事典 補訂版』
 (信濃毎日新聞社開発局出版部編
  信濃毎日新聞社 1981)[N030/2A]
 『長野県歴史人物大事典』
 (神津良子編 郷土出版社 1989)[N283/13]
 などで
 福島正則
 『長野県百科事典 補訂版』(前掲)693pに
 「1619(元和五)年・・・・・・壱拾陸、壱拾玖
  武家法度にそむいたかどで
  所領は没収
  津軽4万5000石に転封を命ぜられ
  改めて
  越後
  魚沼郡に2万5000石
  高井郡に2万石を給せられた
  配流に近い生活を
  高井野の居館に送り」
 「高井野
  『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(前掲)881pに
  福島正則屋敷跡の項目
  現在の上高井郡高山村高井堀の内
  『長野県上高井郡誌』
  (上高井郡教育会編 千秋社
  1999上高井郡教育会刊
  1914(大正三)年の復刻) [N214/89]731p
  「高井村 福嶋城址」の項目に
  「大字高井字堀之内にあり
  元和年中・・・後水尾天皇
         将軍は徳川秀忠、徳川家光
         慶長の後、寛永の前の日本年号
         1615年〜1624年の期間
  福嶋正則の築く處なり
  始め回字形を為して
  四壁に高塁を築き
  塁上に
  松柏桜等を植ゑ
  塁外に空濠を鑿ち
  門外に馬場を構へたり
  東西七十間南北四十間あり」
 とある・・・
 改易の年
 元和五年=1619年
 ↓↑
 ・・・「大久保長安(慶長十八年(1613年)四月二十五日死亡」後の事件は「大久保忠隣改易」も含め家康の意志ではなく「本多正信・正純」の讒言・・・「福嶋正則(元和五年・1619年)」の改易も・・・?
ーー↓↑ーー
 紅花染めの用いられた正倉院染織品
 唐代編纂の
 『大唐六典』
 『通典』
 ↓↑
 『元和郡県図志』・・・元の和の郡の県の図の志
 ↓↑
 宋代編纂の
 『新唐書』では
 唐代中国内の
 紅花・・・紅花=キク科の越年草・高さ約1メートル
 ↓↑ 葉は堅くてギザギザ
    互生
    夏、アザミ(薊・阿左美)に似た頭状花
    鮮黄色から赤色に変わる
    花を乾かしたものを
    紅花(コウカ)=婦人薬・口紅や染料の紅
    赤い色の花・ベニバナの花を乾燥させたモノ
    漢方=腹痛・月経不順・浄血などに用いる
    紅花緑葉=紅色の花と緑色の葉
         彫漆(チョウシツ)技法の一
         朱漆と緑漆を交互に塗り重ね
         朱漆の層に
    雅称=末摘花(すえつむはな)・・・源氏物語
       紅色染料や食用油の原料
       エジプト原産
       日本にはシルクロードを経て
 ↓↑    4〜5世紀ごろに渡来
 の産地として
 興元府(梁州)、蜀州、漢州、霊州、青州が挙げられ
 唐の領土内において
 紅花は広範に栽培されていた・・・
 ↓↑
 青森県立図書館
 青森県教員録
 明治十三年十二月届 木村良臣
 1881(国立国会図書館)
 『青森県職員録 』
  青森県(国立国会図書館)
 1936(国立国会図書館)
 『七和村誌 : 御即位記念』
 青森県北津軽郡-七和村・・・七和村?
 1928(国立国会図書館)
 『西津軽郡誌』 島川観水編
 青森県西津軽郡 1916(国立国会図書館)
 「青森県鉱泉誌」
  青森県警察部衛生課 1920(国立国会図書館)
 『青森県誌:県史名勝旧蹟現況』 西田源蔵編 成田書店
 1926(国立国会 ...
 ↓↑
 『福井県史』通史編3 近世一
 若狭での本格的な地誌は
 歌人でもあった
 小浜藩士
 牧田忠左衛門近俊が
 元禄六年頃に著した
 「若狭郡県志」である
 「雲の浜聞見録」は、
 見聞記的で、
 江戸において召し抱えられた
 藤林誠政が
 享和元年(1801)から翌年にかけて
 藩主
 酒井忠貫
 に従って小浜を訪れた折に見聞した記録
ーー↓↑ーー
 晏(やすらか・おだやか・おそい・アン・エン)
 「家の屋根・家屋」
 と
 「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」
 の合体象形・・・
  (家の中で 女性がやすらぐ、やすらかの意)
 「穏やかな日・晴れ
  太陽が西に入って落ち着く夕暮れ」
ーー↓↑ーー
 「晏嬰=晏平仲」とも呼ばれ、「質素倹約を心掛け、国の繁栄の為のみ」に尽力(?)する私心の無い姿から、「晏子」の尊称で呼ばれる・・・字(あざな)は平仲・・・霊公、荘公、景公の三代に仕えた・・・「斉国の宰相」、「莱の夷維の人」・・・「越石父(エツセキホ)」って?「石の父を越える」・・・
 越石父は賢人であったが、
 囚人(奴隷)の身となっていた
 晏子が外出した途中で
 越石父と遭遇し
 乗っていた
 三頭立て馬車の
 左の馬を売って、
 越石父の身を自由にし
 馬車に同乗させ、帰宅したが、
 越石父には挨拶もせずに部屋に入っていった
 コレを越石父は無礼と云って
 奴隷に戻るとゴネタ・・・?
 ↓↑
 晏子は旅行途中で
 囚人の越石父と出会い
 彼の罪を
 馬車の
 左の馬の添え馬で贖罪し
 越石父を自由にの身にし
 越石父を同乗させ帰宅したが
 越石父には
 挨拶もせずに奥へ入ってしまった
 コレを
 越石父は晏嬰の無礼であると怒り
 奴隷に戻るとゴネタ・・・?
 非を悟った晏嬰は
 石父を上客としてもてなした?・・・
 ↓↑
 ・・・厭なヤツだけれど、儒学者よりは使い道があったんだろう・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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