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zoom RSS ひろしま・コウトウ・・・

<<   作成日時 : 2017/08/07 18:59   >>

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 ・・・8月6日の「広島の夏空形=ヒロいシマのナツのソラのクモのカタチ」・・・「木之子=きのこ=茸・菌・蕈・木ノ子」・・・「ヒロシマ=廣島・廣嶋・広島・広嶋」・・・「広島の由来を調べると、「1589年(天正十七年)からの毛利輝元による広島城築城の際に、1591年(天正十九年)命名された」、「大江広元(毛利氏の祖)以来、毛利氏は「元」の通字以外、「広」も諱に使用する字の一つとしていた。毛利元就の時代には、完全に臣従したもの(吉川元春、天野元貞、出羽元祐など)には、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆(平賀広相、阿曽沼広秀など)には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与えたとされる。この慣習は毛利輝元にも引き継がれ(吉川広家、山内広通、益田広兼など)、毛利氏(特に輝元)の与える「広」は重要な意味合いを持った。従って「広島」は、この「広」とこの地の豪族であり、普請奉行であった福島元長の「島」を併せたとする説が有力である。また他に、デルタ(δ・Δ・▽・凵Edelta)のため「広い島」からきたという説」があるらしい・・・「元」は、ボクには例の如く「一」と「兀=π(パイ・pi・Pi・ギリシア文字 π=円周率・円周と直径の比・3.1415・・・」の合体にしか観えないんだけれど・・・
 モチロン、
 「ひろい=広=廣=广+ム(黄)」
           「ム=横島・私・邪」
           「黄=黃(廿一田八)」・・・寅?→虎・彪
 は
 「弘・紘・拾い」で
 「煕」は「熙=臣(叵U)+巳+ 灬」
  ↓↑      ↓↑
 「¦」は・・・棒(ボウ)=(二h=コン)が重なる
 「ブロークンバー (broken bar)」
 「ブロークン バーティカルバー (broken vertical bar) 」
 「破断線」
  ↓↑   記号、「|」→「¦」→「‖」→「=・=」
 「|」は・・・棒(ボウ)=𠂉𠂉𠂉(h=コン)
 「バーティカルライン (vertical line)」
 「縦線」
  ↓↑
 「熈(俗字)=h+臣+巳+灬」
 「焈(古字)=一+尸+巳+火」
 「ひかる・ひろい・やわらぐ・よろこぶ・たのしむ
  ああ・キ」
 「かがやく・ひかる・ひろい・ひろまる
  恩徳が、ひろく行きわたる・おこる・さかん」
 「起(キ)に当てた用法
  やわらぐ・よろこぶ・たのしむ・たわむれる」で、
 「康煕(漢字)字典」・・・
 「徳川家康」
 「康=广+隶)」=やすい・やす・やすし・しずか・よし・コウ
 「熙=臣(叵U)+巳+灬」
  ↓↑
 『康熙(コウキ)字典』
 清の
 康熙帝の勅撰により
 漢代の
 『説文解字』
 以降の
 歴代の字書の集大成として編纂
 張玉書
 陳廷敬
 ら
 三十名で編纂
 六年の編集期間
 康熙五十五年閏三月十九日(1716年)完成
 全42巻
 収録文字数
 49,030
 音義(字音と字義)を解説
 字義や字音を調べるための字書
 字の配列順は先行字書である
 『字彙』、『正字通』
 画数順、同部首内の文字の画数順を倣った
 「康熙字典順」という呼称が使われている
 部首別漢字辞典の規範
 Unicode内の漢字コードの配列順
  ↓↑
 1780年(安永九年)
 日本で
 『日本翻刻康熙字典』
 が初版翻刻
 「安永本」と呼ばれ
 木版印刷
  ↓↑
 「総目」は本文の総目次
 「検字」は
 人偏、三水など部首が
 変形したものの属する部首を挙げ
 次に、
 部首を見いだし
 にくい字の部首を
 画数別に示す
 4画の項では
 「仄、今、介」・・・
  ↓↑ 「仄(シキ・ショク・ソク)
      仄=厂+人・・・囚から」(かぎ)を
              外した漢字が「仄」?
        ガンダレのヒト?
        囚人・捕囚
        囚(とりこ)=匚+人+h
              =冂+人+一
              =一+人+凵
      仄韻(ソクイン)の略」
      仄=いやしい・身分が低い
        かたむく・かたよる
        かたわら・あたり・そば
        ほのか・かすか・わずか
        ほのかに・かすかに・わずかに
        ほのめく・ほのかに見ることができる
  ↓↑    ほのめかす・それとなく言う
 などが
 人部に
 「云、互、五、井」
 などが二部に属することがわかる
 「弁似」は
 字形が類似しているが
 別の字であるものを
 「二字相似」
 から
 「五字相似」
 までに分けて収める
 弁=ベン=弁(厶+廾)=辨(辨別・分ける・わきまえる)
            =辯(辯論・弁解・弁護・弁明
               弁論・抗弁・答弁)
=瓣(花瓣・花びら)
            =瓣(管に流れる気体、液体の流れを
               制御する装置
               バルブ、弁膜・安全弁
            =辦(辦償・弁済・辦理士・処理する)
            =辮(弁髪・辮髪・髪形)
   ベン=宀・卞・丏・芇・抃・汳・釆・靣・泯
      免・勉・眄・俛・便・面・眠・娩・胼
      覍・冕・湎・腁・黽・絻・綿・臱・箯
      緜・麪・緬・鮸・麵・駢・麺・鞭・騈
      辮・瓣・辯・辧・辨
  ↓↑
 巻末の「補遺」冒頭に
 「凡そ音義有りて
  正集に入るべくして
  未だ増入を経ざる者、
  為に補遺一巻を作る」
 とあり、
 音も義も備わっているのに
 本文に漏れた漢字を収めている。
 「備考」冒頭に
 「凡そ考拠すべき無く、
  音有りて義無く、
  或いは
  音義全く無き者、
  為に備考一巻を作る」
 とあり、
 先行する字典に収録されているものの
 字義が不明の漢字を収めている
 ・・・「音義(オンギ)全く無き者」だが「字形」はアル、と云うコトである・・・字形はアルが音も字義も不明な漢字・・・
 ・・・「恩義マッタク無きもの」・・・
 「恩無き刑=丑と戌、戌と未、丑と未」、
 「自刑=辰と辰、午と午、酉と酉、亥と亥」・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・「恩義マッタク無きもの」・・・
  ↓↑
 「毛利氏の家系は
  大江広元(おおえ の ひろもと)の四男
  毛利季光を祖とする血筋。
  寒河江氏などは一門。
  家紋は一文字三星紋。
  安芸(広島県西部)の小規模な
  国人領主だったが、
  暗殺や買収、婚姻や養子縁組など
  権謀術数を駆使して
  中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、
  一代で大国を築き上げた。
  ↓↑
  用意周到かつ合理的な策略と駆け引きで、
  自軍を勝利へ導く策略家。
  子孫は
  長州藩の藩主となり、
  同藩の始祖」・・・
  ↓↑
 「毛の利」?
 「長さの単位=1寸(30.3cm)の1000分の1毛」
 「重さの単位=1匁(3.75g)の1000分の1毛」
 「貨幣の単位=1円の10000分の1=一毛
       =1銭の100分の1=一毛」
 「割合の単位=1割の1000分の1=一毛
       =1厘の10分の1=一毛」
  ↓↑
 「毛野 (けの) 国=(群馬県と栃木県南部)」
 「毛人=蝦夷」
 「毛利元就」が所用していた伝わる軍幟(軍旗)は
 「一文字三星(三丸・●●●)」・・・
ーー↓↑ーー
 まる・マル
 まる=輐・槫・摶・圝・團・圓・圌・団
    円(つぶら・円盤)・・・・・・П+丄・・・巴
    丸(球体)
    巻(とぐろ・渦巻き)・卷・・・П+丄・・・巴
    盤(皿・水盤)
    筒(くだ・管)
    円→圓=「囗+口+目+八」=イン・ウン
        「囗+鼎(かなえ)」
        「囗(○)」は丸い形の容器を示す
        「圓」=「囗(かこい)+員」
            まるい囲い
ーー↓↑ーー       ↓↑
 「葛城 円(かつらぎ の つぶら)」
  生年不詳?〜安康天皇三年(456年)
  紀元5世紀ごろ活躍した
 「葛城」氏の豪族
  ↓↑
 履中天皇二年(401年)
 国政に参加
 安康天皇三年(456年)
 「眉輪王(目弱王)」
 が
 安康天皇を殺した時
 「眉輪王」と
 「坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)」
  ハンゴウコクゲン→反語得国言(諺)
           判語有-故句言・胡苦言
            irony・ironically・・・イロニイ
            A fat lot of good...
      Can any one know what will happen tomorrow ?
 を屋敷に匿い
 「雄略天皇」に屋敷を包囲され
 娘の
 「韓媛(からひめ)」・・・韓の媛?
 と
 「葛城の屯倉(みやけ)」
 七ヶ所を差出し許しを乞うが
 焼き殺された(日本書紀)
  ↓↑
 「坂合黒彦皇子は逃げこむ前に討たれ殺された・・・
  差出した
  屯倉は五ヶ所
  眉輪王を殺して自害(古事記)」
  ↓↑
 曾祖父は
 武内宿禰
 祖父は
 葛城襲津彦・・・葛城を襲(かさねる・おそう)
            津(つ・シン)の彦(ひこ・ゲン)
 父は
 玉田宿禰・・・玉田の宿禰=允恭天皇五年七月十四日条
  ↓↑          葛城襲津彦の孫
              雄略天皇七年是歳条
              葛城襲津彦の子
        雄略天皇七年是歳条「別本云」
       「毛媛(吉備上道田狭の妻、のち雄略天皇の妃)」
        の名を挙げ(日本書紀)
        葛城円を子に挙げる(公卿補任)
        允恭天皇五年七月十四日条
        玉田宿禰は反正天皇の殯を命じられ
        地震(允恭地震・日本の記録上初めての地震)
        があったにも関わらず酒宴を行なて
        殯宮にいなかった
        允恭天皇は
        尾張連吾襲を派遣して調べさせたが
        玉田宿禰は
        吾襲を殺し
        武内宿禰(葛城襲津彦の父)
        の墓域に逃げた
        天皇は玉田宿禰を呼び出し
  ↓↑    玉田宿禰を誅した・・・
 娘は
 韓媛(雄略天皇の妃)
 清寧天皇は孫
  ↓↑
 円大使主(つぶらのおほみ)=履中天皇二年の条(日本書紀)
 円大臣(つぶらのおほおみ)=雄略天皇元年の条(日本書紀)
 都夫良意富美(つぶらのおほみ)=安康天皇(古事記)
  ↓↑
 大使主=大臣=意富美=おほおみ
 古代,令制以前
 大連 (おほむらじ)
 とともに朝政をとった最高官
 武内宿禰が初代
 続いてその子孫
 平群 (へぐり)
 蘇我 (そが)
 巨勢 (こせ)
 葛城 (かつらぎ)
 らの諸氏が就任
 雄略天皇以前は
 「大臣」、
 「大連」
 のいずれか一方で
 併置されるようになったのは
 雄略天皇以後
 用明二(587)年
 「大連」物部氏が滅んだ後は
 「大連」をおかず
 「大臣」蘇我氏が執政
 大化元(645)年
 蘇我氏が滅び
 「大臣」が廃され
 左大臣
 右大臣
 が設置された
  ↓↑
 おほおみ(大臣)
 大和朝廷の執政官
 成務朝に
 「武内宿禰(たけうちのすくね)」
 が大臣
  ↓↑
 五世紀後半
 雄略朝前後から執政官名に用い
 「大王(おほきみ)」
 に対する最高の地位として
 「大連(おほむらじ)」
 と併置
  ↓↑
 葛城円(かつらぎ-の-つぶら)
 平群真鳥(へぐり-の-まとり)
 巨勢男人(こせ-の-おびと)・・・巨勢=許勢
                 許勢小柄の曾孫
                 巨勢河上の子
 6世紀中期以降
 蘇我稲目(いなめ)
   馬子(うまこ)
   蝦夷(えみし)
 ら
 大和の地名を氏の名とし
 武内宿禰の後裔を名のる
 臣の姓をもつ有力豪族が
 議政官の
 大夫層を率いて
 世襲的に朝政にあたった
  ↓↑
 「おほおみ(大臣)」
  ↓↑
 大和朝廷の国政の最高官の一
 臣(おみ)を
 姓(かばね)とする豪族の最有力者で
 「大連(おほむらじ)」
 とともに国政に参画
 葛城(かつらぎ)
 平群(へぐり)
 巨勢(こせ)
 蘇我(そが)
 の諸氏が任ぜられた
 六世紀半ば以後は蘇我氏が独占
 大化の改新後廃止
 左、右大臣を設置
  ↓↑
 大臣=おおみ・おおまえつぎみ
    律令制の「太政官の上官」
    「太政大臣・左右大臣・内大臣」
    の称
    「おとど・おおいもうちぎみ」
  ↓↑  ↓↑
 葛井=くずい・かつい
    ふじい・・・不二葦・負字意?・・・附字意・付字意?
  ↓↑  ↓↑
 日下連・日下宿禰・日下部氏
 (河内国皇別
  阿閇朝臣、阿閇臣、日下連、大戸首、難波忌寸、難波)
 古代日下部の職名から起こり
 多くはその部民の末。草壁ともいう
  安倍氏の
  祖先も
  第八代孝元天皇の孫
  天皇の別称は
  大日本根子彦国牽天皇(日本書紀)
  大倭根子日子国玖琉命(古事記)
 などにもみられる
 徳島藩の士族にみられる
 「日下」の
 「下」は「上」や「中」に対し
 低い所や麓(ふもと)
  ↓↑ 
 日下=くさか・にちか・にちした・にっ か
    ひしも・ひした・ひのした
    ひもと・ひか・ひかげ・ひげ
    くさか=草加・久坂・匂坂・草薙・草鹿
  ↓↑  ↓↑
 仁徳天皇の子供
 大日下王
 若日下王
 日下姓を名乗っ たのは
 「小野妹子」・・・中国名「蘇因高」
  ↓↑      第二回(607)=小野妹子派遣、煬帝に謁見
          ↓↑
          第一回
          遣隋使
         「隋書・東夷傳・俀國傳」
          高祖
         「文帝(楊堅・那羅延)」
          の問いに遣使が答えた記録
         「阿毎王朝」の
         「姓阿毎、字、多利思北孤」
         「號、阿輩雞弥」
          からの使者
  ↓↑      ↓↑
          600年(推古八年)
           〜
          618年(推古二十六年)
  ↓↑      の18年間に5回以上派遣
 の子供
 「小野義持」?・・・という人物?・・・小野擬似・疑似?
  ↓↑
 「小野妹子の子の
  伝承編集者の家の伝承で?・・・伝承編集者?
  西暦587年
  丁未の乱
 (ていびのらん)=丁未の変=丁未の役
         =物部守屋の変
         =物部守屋が
          蘇我馬子、聖徳太子に滅ぼされた
  の時に
  既に八男として、
 「小野義持」がいた?・・・「小野義持」って?
  ↓↑
 「日下の姓は
  小野義持が
  聖徳太子からもらった
  賜姓(シセイ)」が「日下」って?・・・
  ↓↑
 「煬帝」=隋朝の第二代皇帝は
      文帝(楊堅・那羅延?)の次男・・・
      ↓↑    那羅(なら)に延(の)ばす?
               奈良 に延長?
            文帝=那羅延=金剛力士=仁王
            北方異民族の
           「普六茹」氏の子孫?
            鮮卑族
      ↓↑   「茹=艹(艸)+如」=ジョ・ニョ
              ゆでる・うでる
              かんでやわらかくしてたべる
              やわらかい野菜
              食用にする野菜
              ぐにゃぐにゃしている
              やわらかくずるずるとつながる
              ゆでる(ユヅ)
      ↓↑      熱湯でやわらかく煮る
     (在位=604年8月21日〜618年4月11日)
      煬帝は唐王朝による追謚
      姓諱は
      楊広・・・ヤナギのヒロサ?
  ↓↑  ↓↑
 「クサカ」の言葉の由来については、
 「草が香るところ」
 「アイヌ語で
  渡船場(クサ=船で渡る+カ=岸)」の意・・・?
 「あんたがたどこさ」=童歌で手鞠歌
            熊本県熊本市(埼玉県川越市)
            「肥後手まり唄」
            仙波山=仙波古墳群周辺一帯の別名
               熊本には船場川はあるが
               船場山や
               仙波山という地はない
            ・・・船場川であればよし・・・
              (川=セン→サン=山)だから
 ・・・兎に角、「あんたがたどこさ」は幕末〜明治の東京「上京組み」の人々の「出身地は何処?」と云う問答だろう・・・
  ↓↑
 で、
 「朝日(朝陽・旭日)」の後に昇って来るのは
 「シリウス(大犬座の星)」である・・・
 「犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)
  姓は君・三田耜とも
  最後の遣隋使であり、最初の遣唐使
  推古二十二(614)年
  矢田部造
  らとともに遣隋小使
  冠位は
  大仁」
 「犬上氏(犬上君)
  日本武尊の子、稲依別王の後裔
  近江国
  犬上郡発祥の豪族
  御田鍬は
  建部倉宇志の子で、
  子に
  白麻呂がいた」・・・
  舒明二(630)年
  大仁、薬師恵日とともに再び派遣
  最初の遣唐使
 ↓↑
 推古天皇二十二年六月十三日(614年7月24日)
 最終
 遣隋使として
 犬上君御田鍬
 は
 矢田部造(名不明)
 とともに隋に渡った
 翌
 推古天皇二十三年(615年)九月
 百済使を伴って帰国
  ↓↑
 舒明天皇二年(630年)
 犬上君三田耜
 は
 薬師恵日
 とともに
 唐に派遣
 二人の冠位は
 「冠位十二階」の
 第三である大仁
 十一月
 唐の都長安城に入り
 皇帝「太宗」に謁見
  ↓↑
 唐は
 「高表仁」に
 「三田耜」を送らせ、
 八月に
 対馬に着いた
 學問僧の霊雲・僧旻、勝鳥養
 新羅の送使も行をともにした
 「高表仁」は
 十月四日
 難波津に着き
 翌年
 一月二十六日
 帰国
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 ・・・飛んでいるネッ・・・
  ↓↑
 謀反(むほん・ボウハン)
 唐律において謀反は十悪の第一
 養老律でも八虐の第一
 律において謀=計画にとどまり
  ↓↑    実行に着手していない予備罪
      反=謀だけで極刑となり
        実行してもしなくても
        刑に違いがないので
        条文では謀反の規定で兼ねる
        反は皇帝・天皇の殺傷
        叛は本朝(本国)を裏切って
        外国を利すること
        謀反と謀叛は別の罪
        後に
        謀反・謀叛と同義になる大逆も
  ↓↑    律では陵墓や宮闕の損壊という別の罪
 唐律の条文で
 「謀反」=「社稷を危うくせんと謀ること」
 養老律では「国家を危うくせんと謀ること」
 社稷・国家とは、
 尊号を直接書くことをはばかったもの
 律の疏(注釈)にある
 字義通りではなく
 皇帝・天皇のことである
 はばからず直接的に書けば
 反=皇帝・天皇に対する殺人と傷害
 謀反=その計画である
    実際の適用では
    臣下の間での実力による
    政権奪取の試みや陰謀も謀反に含められた
  ↓↑    
 「謀反」=時の為政者に反逆すること
      国家・朝廷・君主にそむいて兵を挙げること
      律の八虐の規定で
      国家に対する反逆
      「謀叛」の字を用い、
      「謀反 (むへん)」 、「謀大逆 (ぼうたいぎゃく) 」
      に次いで3番目の重罪
      ひそかに計画して事を起こすこと
  ↓↑
 「宮城事件=1945年(昭和二十年)
       8月14日の深夜〜15日(日本時間)
       宮城(1948年7月1日以前の皇居)で
       一部の陸軍省勤務の将校と
          近衛師団参謀が中心となって
       起こしたクーデター未遂事件」
  ↓↑
 ゲシュタポ(Gestapo)
 ドイツ語の発音は「ゲスターポ」・・・ゲスのキワミ?
         「ゲシュターポ」
 ゲハイメ・シュターツポリツァイ
 (ドイツ語: Geheime Staatspolizei=「秘密国家警察」
  通称ゲシュタポ、独語はGestapo)
 ナチス・ドイツ期のプロイセン州警察
 ドイツ警察の中にあった
 秘密警察部門
 1939年9月以降
 ナチス親衛隊の一組織
 SS(親衛隊)=ナチス党の下部組織
        大半はイベントの時だけ制服を着て
        パレードに参加するボランティア
        SSの中に作られた
        ナチス党独自の情報機関が
       「SD(親衛隊情報部)」
 1938年11月11日
 「SD」が保安警察を支持するため
 国家の命令に従うという内相布告
 ゲシュタポ構成員を
 世界各国のドイツ大使館に派遣
 海外に亡命した反ナチスの
 ドイツ人やユダヤ人の
 監視・摘発の任務に当たっていた
 「予防拘禁」=1933年11月以来、
        ドイツ警察に認められていた
       「常習的犯罪者」に対する拘束権限
        政治的反対者を対象とする
       「保護拘禁」とは別物だった
        前科2犯以上の
       「常習的犯罪者」は
        刑期が終了しても警察の判断で
        無期限に拘束することができる
  ↓↑
 2017年6月15日・・・犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ「テロ等準備罪」・・・
ーーーーーー
 ・・・
 奈良県桜井市
 桜井茶臼山古墳
 を調査していた
 県立橿原考古学研究所(橿考研)は
 2010年1月7日
 この古墳には国内最多の
 13種、81面
 の銅鏡が石室に副葬されていたと公表
 石室の床から収集した
 384点の鏡の破片を
 「三次元デジタル・アーカイブ」
 のデータと一つ一つ照合した結果、判明
 完形の銅鏡は一枚もなく
 ほとんどが1〜2cmの指先ほどの破片
 特定できたのは
 約200点の破片だけであり
 他の180点については
 どの鏡のどの部位か分かららず
 実際はもっと多くの鏡が副葬されていた可能性もある・・・
 「是」という字が刻まれていた
 縦1.7cm、横1.4cmの小さな破片は
 蟹沢古墳(群馬県高崎市柴崎)から出土した
 「正始(せいし)元年」
 の銘がある
 三角縁神獣鏡に刻まれた字と形が同じで
 同じ鋳型から作られた鏡のものだった
 正始元年(240)
 は邪馬台国の女王
 卑弥呼が魏に派遣した使節が
 帰国してきた年である・・・
  ↓↑
 景初三年(239)六月
 卑弥呼の使節が
 帯方郡にやってき
 帯方郡の役人に引率され
 都、洛陽に到着し
 魏の皇帝に謁見(十二月)
 翌年の
 正始元年(240)の初めには帰国の途に・・・
 正始元年の銘を記入した
 鏡を百枚も制作は不可能か?・・・
ーーーーー 
 公廨稲
 ・・・公廨稲(くがいとう・くげとう)
 ↓↑ 律令制における「官稲」の1つ
    本来は官衙の舎屋の意
    律令制下において
    官衙の収蔵物・用度物のこと
    転じて官人(国司)の得分(給与)
    収蔵物・用度物の使い道の代表
    官衙の経費・官人の給与などの公廨の財源
 ↓↑ 諸国の国衙で
    一定額の官稲を農民に出挙し
    その利子 (利稲) を
    官衙の雑費と官人の給与にあてた
    738年に中宮職税
    739年に駅起稲・兵家稲が正税に混合
    744年7月に国分二寺稲の別置
    745年11月の公廨稲(くがいとう)の設置
    諸国の「官稲」は
 ↓↑ 正税・公廨・雑稲の三本立てとして運用された
ーーーーー
 葛野=カズラノ
    福井県丹生郡越前町
 葛野=クズノ
    青森県南津軽郡藤崎町
 葛野=カズラノ
    福井県丹生郡越前町
 葛野=クズノ
    青森県南津軽郡藤崎町
 葛野=かどの・かずらの)
 葛野大路通(かどのおおじどおり)
 京都府京都市の主要な南北の通りの一
 平安京の無差小路に、ほぼ該当
 西京極大路からは東側にズレている
 現在の道路名は
 当地が
 山城国葛野郡であること
 北側は暫定的に太子道までが開通
 太子道以南で
 御池・三条・四条・五条・七条・八条・九条
 久世橋・祥久橋(第二久世橋)・津知橋
 通等と交差
 南は
 上鳥羽塔ノ森西河原町
 まで・・・
 「葛井」は「ふじい」ともナゼ読ませているんだか?・・・
ーーーーー
 ・・・コンフューズ・・・あっちこっち、コンフューズ(confuse)・・・今附有渦?・・・鳴門海峡の淡路島の渦?・・・混附諭烏事?・・・

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