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zoom RSS 蔵の人の頭・・・秘書官長・・・「官房長官」?

<<   作成日時 : 2017/08/04 15:07   >>

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 ・・・ニュースでは「AI(人工知能)が習近平の共産党を批判した(中国のIT大手の騰訊(テンセント)が提供する人工知能(AI)を活用 した対話プログラムがチャットで「共産党は無能」と批判を展開し、サービスが急遽停止された・中国の大手IT企業、テンセントが運営しているインターネット上で一般の人たちと会話する人工知能のキャラクターが、中国共産党について、腐敗して無能だ、と批判した・中国の大手IT企業「テンセント」が提供している、人工知能(AI)を用いた会話プログラム( チャットボット)が共産党を批判したため、同社はサービスを停止した。香港の「明報」が、 2017年8月2日報じた)」とか、「中国共産党万歳という書き込みに対し、AI は、こんなに腐敗して無能な政治に万歳なんてできるの?、と答えた」とか・・・哂っちゃったけれど・・・「日本の自民党」に対しては「AI(人工知能)」はナンって答えるんだろうか・・・「2333」の数字もナンか意味アルのカナ?・・・「AI(人工知能)」に訊いてみたい・・・「2+3+3+3=11・十一・壱拾壱」・・・既に8月4日になっちまった・・・

 2017年丁酉(庚・ ・辛)
 0008月丁未(丁・乙・己)
 0004日癸亥(戊・甲・壬)
 ↓↑ ↓↑
 0005日甲子
 0006日乙丑
 0007日丙寅
 0008日丁卯
 0009日戊辰
 0010日己巳
 0011日庚午
 0012日辛未
 0013日壬申
 0014日癸酉
 0015日甲戌・・・「終戦(敗戦?)記念日」
         「ナポレオン・ボナパルト
         (Napoléon Bonaparte)
          1769年8月15日〜1821年5月5日)」
          1769年己丑(癸・辛・己)
          0008月壬申(己・壬・庚)偏印格
          0015日甲午(丙・ ・丁)辰巳
          ↓↑
        if 0016日乙未(丁・乙・己)→印綬格
        if 0014日癸巳(戊・庚・丙)→劫財・支合庚
          ↓↑    ↓↑
          1821年辛巳(戊・庚・丙)正官
          0005月壬辰(乙・癸・戊)偏印
          0005日甲申(己・壬・庚)比肩
ーーーーー
 ・・・「走り込む」、「ハシリコム」って?・・・
 ↓↑
 葛子=くずこ・くすこ=楠子・薬子・・・?
 ↓↑
 藤原薬子(ふじわらのくすこ)
 生年不詳
  〜
 大同五年九月十二日・・・大きく同じ語を捻じ
 (810年10月17日)    句解通、壱を拾い
             爾を比(くらべる)?
 女官
 式家の
 藤原種継の娘
 中納言
 藤原縄主の妻
 三男二女の母
 長女が
 桓武天皇の皇太子
 安殿親王の宮女となり
 東宮宣旨(高級女官)として仕えた
 自分が
 安殿親王と
 不倫の仲となり・・・?
 薬子は
 藤原葛野麻呂・・・葛-野-麻呂=かど-の-まろ?
 ↓↑       天平勝宝七年(755年)
              〜
          弘仁九年十一月十日(818年12月11日)
          藤原北家
          大納言
          藤原小黒麻呂の長男
          母は
          秦島 麻呂の女(娘)
          官位は正三位・中納言
          延暦二十年(801年)
          遣唐大使
          延暦二十二年(803年)正月
          従四位上
          四月に節刀を授けられ
          難波津より出航
          暴風雨で遣唐使船が破損
          延暦二十三年(804年)七月
          再出航、八月に福州に漂着
          十二月に長安城に入って
          徳宗との謁見
          延暦二十四年(805年)正月
          徳宗崩御、順宗即位にも遭遇
          同年五月に明州から
          対馬を経由し七月に帰国し節刀の返上
          同月末
          功労により
          従四位上から従三位にまで昇叙され公卿
 ↓↑       この遣唐使で最澄・空海も同行
 とも通じて
 桓武天皇が怒り
 薬子を東宮から追放した
 ↓↑
 806年
 桓武天皇が崩御
 安殿親王が平城天皇として即位
 薬子は再び召され
 尚侍となる
 夫の
 藤原縄主
 は大宰帥として九州へ
 天皇の寵愛を受けた
 薬子は政治に介入
 兄の
 藤原仲成
 とともに専横を極め
 兄妹は人々から深く怨まれた
 大同四年(809年)
 亡き父の
 藤原種継
 に太政大臣を追贈
 ↓↑
 同年
 平城天皇は病気のため
 同母弟の
 神野親王(嵯峨天皇)
 に譲位
 退位した
 平城上皇は平城京へ移る
 平安京と平城京に
 二所の朝廷が並ぶ
 薬子と仲成が
 平城上皇の復位を目的に
 平城京への遷都を図ったため
 二朝の対立は決定的になった
 ↓↑
 大同五年(810年)九月十日
 嵯峨天皇は平安京にいた藤原仲成を捕らえ
 薬子の官位を剥奪
 平城上皇は
 薬子とともに挙兵するため
 東へ向かったが
 嵯峨天皇は先手をうって
 坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえ
 勝機のない
 平城上皇は平城京に戻って剃髮
 薬子は毒を仰いで自殺
 仲成も殺された
 (薬子の変=平城太上天皇の変)
ーー↓↑ーーー
 延暦二十五年(806年)
 桓武天皇崩御
 皇太子
 安殿親王(平城天皇)が即位
 平城天皇は弟の
 神野親王を皇太弟とした
 平城天皇が病弱で
 その子供達も幼かった事を考え
 嫡流相続による皇位継承を
 困難と見た父、
 桓武天皇の意向があった・・・
 翌
 大同二年(807年)
 平城天皇の
 異母弟
 「伊予親王」
 が謀反の罪を着せられて死亡
 皇位継承を巡る宮廷内紛争・・・
 ↓↑
 大同四年(809年)四月
 平城天皇は発病
 病を叔父
 早良親王
 や
 伊予親王
 の祟りによるものと考え
 天皇は、禍を避けるために譲位
 天皇の寵愛を受けて
 専横を極めていた
 尚侍
 藤原薬子
 その兄の
 参議
 藤原仲成
 反対するが
 天皇の意思は強く
 同年四月十三日
 に
 神野親王が即位(嵯峨天皇)
 皇太子に
 平城天皇の三男
 高岳親王が立てた
 ↓↑
 大同四年十二月(810年1月or 2月)
 平城上皇は旧都である平城京へ移る
 平城上皇が天皇の時に設置した
 観察使
 の制度・・・平安時代初期に設置した
 ↓↑    地方行政監察のための官職
       唐、日本では律令に規定のない令外官
       李氏朝鮮では国王直属の機関
       806年(大同一年)
       東山道を除く6道に各1人を置き
       その下にそれぞれ
       判官1人、主典1人を配し
       観察使の印が付与された
       当初、観察使は参議が兼任したが
       翌年、参議の号を廃止して
       観察使のみを設置
  ↓↑   後
       畿内、東山道にも設置
       観察使設置の目的
       786年(延暦五)に下された
       国司、郡司らの監察に関する
       十六ヵ条の条例
       が有名無実となっていたため
       これを遵行することにあった
       諸国の治績を観察し、
       地方官の執務状況を報告する役所
       東海道使=藤原葛野麻呂(かどのまろ)
       西海道使=藤原縄主(ただぬし)
       山陰道使=菅野真道(すがののまみち)
       山陽道使=藤原園人(そのひと)
       畿内 使=藤原緒嗣(おつぐ)
       北陸道使=秋篠安人(あきしののやすひと)
       南海道使=吉備泉(きびのいずみ)
 ↓↑    東山道使=安倍兄雄(あべのしげお)
 を
 嵯峨天皇が
 改めようとしたことから
 平城上皇が怒り・・・・ナンで怒ったのか?
 二所朝廷
 といわれる対立
 平城上皇の
 復位を目論(もくろ)む・・・目論む=摸句賂務?
 薬子と
 藤原仲成は
 この対立を助長し
 薬子が任じられていた
 尚侍の職は
 天皇による
 太政官への命令書である
 内侍宣の発給を掌っており
 当時の
 太上天皇には
 天皇と同様に
 国政に関与できるという考えがあった
 (孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)
 場合によっては
 上皇が
 薬子の職権で
 内侍宣を出して
 太政官を動かす事態も考えられた
 薬子が
 天皇の秘書である
 内侍司の長官(尚侍)であったため
 平安京にいた
 嵯峨天皇は
 太政官の議政官への
 命令文書にあたる
 内侍宣を出すことができなくなり
 その他の
 政務や宮中の事務において
 支障をきたした
 ↓↑
 嵯峨天皇は
 大同五年(810年)三月
 蔵人所・・・蔵人所=律令制下の令外官の一
 ↓↑    天皇の秘書官
    ・・・秘書官が「蔵人」って意味深である?
       唐名は侍中(ジチュウ)
          夕郎(セキロウ)
          夕拝郎(セキハイロウ)
       蔵人所は事務を行う役所・場所
       青い衣を着用したことから、
       別名は『青色』、「殿上」
       禁中で天皇の側向きの御用をつとめ
       機密文書作成管理・訴訟を担当
       後に詔書の伝宣も行い
       禁中のすべてを総括するようになった
       唐の「黄門郎(コウモンロウ)」の別名に由来
      「日暮に出仕して青瑣門(セイサモン)に拝する」
       ことから
       内裏校書殿の北部に置かれた
       蔵人は百官名、或いは人名の一つ
 ↓↑    この場合は「くらんど」と読む
 を設置
 同年六月
 「観察使」を廃止し
 参議を復活
 このことは平城上皇を刺激した・・・
 ↓↑
 二所朝廷の対立
 同年九月六日
 平城上皇は
 平安京を廃して
 平城京へ遷都する詔勅
 嵯峨天皇はこの詔勅に従うとして
 坂上田村麻呂
 藤原冬嗣
 紀田上
 らを造宮使に任命
 ↓↑
 嵯峨天皇は遷都を拒否
 九月十日
 嵯峨天皇は使節を発し
 伊勢国
 近江国
 美濃国
 の国府と関を固め
 藤原仲成を捕らえて
 右兵衛府に監禁の上で
 佐渡権守に左遷
 薬子
 の官位を剥奪
 造宮使だった
 坂上田村麻呂を大納言に昇任
 藤原冬嗣は式部大輔
 紀田上は尾張守に任じられた
 ↓↑
 九月十一日
 嵯峨天皇は
 密使を平城京に送り
 若干の大官を召致
 この日、
 藤原真夏
 や
 文室綿麻呂
 らが帰京するが、
 平城上皇派と見られた
 綿麻呂は
 左衛士府に禁錮された
 ↓↑
 平城上皇は激怒し
 自ら
 東国に赴き・・・・ナゼ、「東国」なのか?
 挙兵することを決断
 中納言
 藤原葛野麻呂
 ら
 平城上皇方の群臣はこれを諌めた
 が
 上皇は薬子とともに
 輿にのって東に向かった
 ↓↑
 嵯峨天皇は
 坂上田村麻呂に
 平城上皇の東向阻止を命じ
 田村麻呂は出発に当たって
 蝦夷征討の戦友だった
 綿麻呂の禁錮を解くことを願い
 綿麻呂は許されて
 参議に任じられた
 この日の夜に
 藤原仲成は射殺
 ・・・平安時代の政権が
    律令に基づいて
    死刑として処罰した数少ない事例
    保元元年(1156年)の
    保元の乱で
    源為義が死刑執行されるまで
 ↓↑ 約346年間一件も無かった・・・?
 平城上皇
 と
 薬子
 の一行は
 大和国
 添上郡田村まで来たところで
 嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り
 勝機がないと悟って
 平城京へ戻った
 九月十二日
 平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し
 薬子は毒を仰いで自殺・・・
 ↓↑
 事件後
 高岳親王は皇太子を廃され
 嵯峨天皇の弟
 大伴親王(淳和天皇)が立てられ
 弘仁十五年(824年)
 平城上皇の崩御の際に
 既に退位していた
 嵯峨上皇の要望によって
 淳和天皇の名で
 関係者の赦免が行われた
 ↓↑
 空海は
 嵯峨天皇側の勝利を祈念
 以降、
 日本仏教界一の実力者になる契機となった・・・
ーー↓↑ーー
 「伊予(いよ・伊豫=イ尹マ了象)親王」の話しだった・・・
 ↓↑
 大同二年(807年)
 平城天皇の異母弟
 伊予親王
 が謀反の罪を着せられて死に追い込まれた・・・
 ↓↑
 伊予親王(いよしんのう)=伊豫(予+象)親王
 延暦二年(783年)?
   〜
 大同二年十一月十二日(807年12月14日)
 桓武天皇の第三皇子
 官位は三品・中務卿、贈一品
 ↓↑
 延暦十一年(792年)
 加冠
 父の桓武天皇の深い寵愛を受けた
 ↓↑
 延暦二十五年(806年)
 異母兄の平城天皇が即位
 伊予親王の外伯父
 藤原雄友は
 大納言として
 太政官の次席の地位に就き
 親王自身も
 中務卿兼大宰帥に任ぜられた
 ↓↑
 大同二年(807年)五月
 平城天皇は
 神泉苑に行幸
 伊豫(予+象)親王は
 献物を行い終日宴会にも参加
 ↓↑
 大同二年十月
 藤原宗成が
 伊予親王に対して
 謀反を勧めているとの情報を
 藤原雄友が入手し
 右大臣
 藤原内麻呂に報告
 伊予親王も
 宗成が自らに対して謀反を勧めた旨を奏上
 藤原宗成は捕えられ取り調べを受け
 伊豫親王が反逆の首謀者と言いだし
 親王が
 左近衛中将
 安倍兄雄
 と
 左兵衛督
 巨勢野足
 率いる150名の兵士に邸宅を囲まれ捕縛
 親王は
 母の
 「藤原吉子」とともに
 川原寺(弘福寺)の一室に幽閉
 飲食を止められ
 大同二年十一月十二日
 親王は吉子とともに毒を仰いで自害
 (伊予親王の変)
 ↓↑
 後に親王は無実とされ
 淳和朝初頭の
 弘仁十四年(823年)
 母とともに
 復号・復位
 承和六年(839年)
 一品が追贈
ーー↓↑ーーー
 伊予国の
 橘氏
 や
 越智氏
 の祖とされ
 藤原為世(浮穴四郎)?
 ↓↑   浮穴郡(うけなぐん・うきあなぐん)
      愛媛県(伊予国)
      桓武天皇第四皇子の
      伊予親王の長男
      母親は家時の娘
      藤原夫人(伊豫親王の母)が自害した後
      家時が親王の子を潜かに撫育し
      伊予に下向した
      橘清友に預け、その子と称する
      七歳の時に上洛し
      嵯峨天皇皇后の
      橘嘉知子に寵愛され、
     「准第十八皇子」とされて藤原姓を賜る
      下向して
 ↓↑  「浮穴郡高井里」に住み
     「浮穴四郎」を称する
       ↓↑
     「景行天皇が
      宇佐の仮宮にいるとき
      神代の直に
      まだ逆賊はいるのか、と訊き
      その「煙の立って」いる村は、
      いまだに統治を受けておりません、と。
      天皇は
      神代の直に命じ、その村に派遣し
     「浮穴沫媛」という土蜘蛛がいて
      大変無礼でだったので
      すぐに誅し、この村を
      浮穴の郷とした」
     「沫=あわ・マツ・飛び散る水の粒・しぶき
        水の泡・・・安房=あわ=阿波・安和・併
        沫雪 (あわゆき)
        泡沫 (うたかた)
        飛沫 (しぶき)
        水沫 (みなわ)
     「浮穴沫」は記録道理の「煙の立っている村」なら
     「温泉の煙(水蒸気)の輪、ケムリの沫」だろう・・・
     「浮穴村(うけなむら)=浮穴村 (愛媛県上浮穴郡)
                愛媛県上浮穴郡・1943年廃止
               (大洲市・旧肱川村のち肱川町)
                および
               (西予市・旧惣川村のち野村町)
     「浮穴村 (愛媛県温泉郡)=愛媛県下浮穴郡のち温泉郡
 ↓↑               1959年廃止・現在の松山市
 は
 伊予親王の子であり
 嵯峨天皇
 が勅して皇子に準じられ
 藤原の姓を受けた、という説・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・「筑紫-国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)の乱」に又もや突然、飛ぶ・・・理由は単純で・・・飛鳥、明日香、平城、奈良再遷都・・・飛梅・訳備烏目・・・
 ↓↑
 「薬子=くすこ=葛子(くずこ)・屑粉
 ↓↑         九図拠=九相図(九想図・くそうず)
                死体の変貌の様子」
 ↓↑
 と名前の発音が似てい、
 「葛木・葛城」の
 「かづら=葛・蔓・鬘・蘰・葛山・和良」
 の漢字の「同音の訓み」だから・・・
 「葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)
  天智天皇八年(669年)
   〜
  慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
  弘文天皇(大友皇子)の第一皇子」
  孫に
  淡海三船・・・・淡(あわ・タン)海(うみ・あま・カイ)
          三(みつ・サン)船(ふね・ソウ)
  官位は正四位上
  式部卿」・・・「淡海三船」は存在したのか?
ーー↓↑ーーー
  ↓↑
 筑紫 葛子(つくし の くずこ)
  ↓↑         つくし=竭(つくす・ケツ・ゲチ)
             取之不尽、用之不竭
             取っても使っても尽きることがない
             つきる(尽・竭・歇・殫・殲・涸・卒)
             使い果たす・終わりにする・なくす
             物事の実現や解決のために
  ↓↑         あらゆる手段を試みる
 6世紀(古墳時代後期)の豪族
 カバネは君
 磐井(筑紫 君 磐井)の子
 『日本書紀』では
 「筑紫  君  葛子
 (つくしのきみ くずこ)」
 ↓↑
 ?〜?6世紀前半の豪族
 父は
 筑紫-国造(くにのみやつこ)
 磐井(いわい)
 「日本書紀」では
 継体天皇二十二年(528)
 父が朝廷の派遣した
 物部麤鹿火(もののべの-あらかひ)
 の軍に討たれ
 ↓↑
 筑紫 葛子(つくし の くずこ)
 6世紀(古墳時代後期)の豪族
 カバネは君
 磐井(筑紫君磐井)の子
 『日本書紀』では
 「筑紫-君-葛子(つくし-の-きみ-くずこ)」
 と表記・・・・・椄句史・ 訓・ 句図故
 ↓↑
 雄大迹天皇=継体天皇
 ↓↑
 『日本書紀』
 継体天皇二十一年
  〜
 同二十二年(527年?〜528年?)
 父の
 磐井(筑紫君磐井)
 と
 朝廷軍との間に戦いが発生し
 継体天皇二十二年十一月
 磐井は敗死(磐井の乱)
 同年12月
 子の葛子は
 死罪を贖うことを求め
 糟屋屯倉(かすやのみやけ)・・・倉庫・蔵・庫→蔵人?
                庫裏(くり)=厨房?
                       台所・調理場
                仏教寺院の伽藍の一つ
                庫裡とも書く
   「屯倉(みやけ)=ヤマト王権の支配制度の一つ
            全国に設置した直轄地を表す語
            のちの地方行政組織の先駆け」?
   屯倉(みやけ)は「駐屯兵の兵糧倉庫」だろう・・・?
     「屯倉=みやけ=宮家・三宅」・・・三宅秀?
  (筑前国
   糟屋郡付近
   福岡県糟屋郡
   福岡市東区付近に比定)
 を朝廷に献じた
 『筑後国風土記』逸文で
 磐井に関する記述はあるが
 「葛子」に関する記述はない・・・
 ↓↑
 『先代旧事本紀』
 「国造本紀」
 伊吉島造(壱岐国造)条で
 継体天皇の時に
 石井(磐井)に従った
 新羅の海辺の人を討伐したとする記述・・・
 ↓↑
 継体天皇二十二年(528年?)
 十一月十一日条・・・・・・十一・壱拾壱・一一・壱壱
 磐井は
 筑紫御井郡
 (福岡県
  三井郡の大部分と
  久留米市中央部)
 において
 朝廷から征討のため派遣された
 物部麁鹿火
 の軍と交戦し
 麁鹿火に斬られた
 ↓↑
 継体天皇二十二年十二月
 磐井の子の
 「筑紫君-葛子」
 は死罪を免れるため
 糟屋屯倉(福岡県糟屋郡・福岡市東区)
 を朝廷に献じた
 ↓↑
 『日本書紀』において
 「筑紫-葛子」が献じたとする
 糟屋屯倉の記述
 『日本書紀』では
 筑紫地域において他に
 穂波屯倉
 鎌 屯倉
 那津官家
 などの屯倉の設置が知られる
 ↓↑
 史書では
 葛子の後も
 7世紀末まで
 筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ
 その活躍が認められる・・・
 ↓↑
 継体天皇晩年の編年
 『百済本記』の伝える
 「辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)」
 により3年繰り上げられたとする説・・・
 これによれば
 「磐井の乱」は実際には
 「530年〜531年」の出来事・・・?
 ↓↑
 「磐井の乱(いわいのらん)」
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野
 率いるヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君磐井
 が阻(はば)み
 翌528年(継体二十二年)十一月
 物部麁鹿火
 によって鎮圧された
 ヤマト王権と、
 親新羅だった九州豪族との主導権争い・・・
 ↓↑
 527年(継体二十一)六月三日
 ヤマト王権の
 近江毛野
 は6万人の兵を率いて
 新羅に奪われた
 南加羅
 喙己呑 (トクコトン) の2国
 ↓↑  喙=口端(くちばし・ガイ・シ・嘴)
       鳥類の口器
       上下の顎(あご)が突き出し
       角質でおおわれ、歯と唇の機能を持つ
       容喙(ヨウカイ)=くちばしを入れること
                横から口出し
                差し出口
     己(おのれ・自分・みずから・自然に・キ
       土の弟=ツチのト)
     呑(のむ・ドン)・・・雲呑 (ワンタン)
     新羅は522年
     大伽揶との婚姻同盟を結び伽揶に侵攻し
     529年に金官国や
     その西方にあった?
    「喙己呑(トクコトン)」を武力制圧された?
    「喙己呑」は漢字からすれば、
     鳥のクチバシに己が呑みこまれそうな地形だろう?
     韓国釜山、金海近辺の海岸はスベテが
     鳥のクチバシの形に観える・・・
     韓国、洛東江(ナクトンガン)の河口の
     乙淑島(ウルスクト)は、鳥のクチバシに啄ばまれ、
     呑み込まれているようにみえる・・・?
     渡り鳥の到来地として有名らしい・・・
 ↓↑ 「乙淑島(ウルスクト)渡り鳥到来地」
 を回復するため
 任那へ向かって出発
 新羅は
 筑紫(九州地方北部)の有力者
 磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)
 へ贈賄し
 ヤマト王権軍の妨害を要請・・・
 磐井は挙兵し
 「火の国(肥前国・肥後国)」
 ↓↑    ・・・熊本・・・熊川・錦江
       忠清南道公州からは熊津江、
       忠清南道扶余からは白馬江(ペンマガン)
       錦江=百済にとって重要な水上交通路
          公州には百済の旧都
          熊津
          扶余には新都泗沘
          日本、百済vs新羅、唐
          との間で戦われた
          白村江の戦いが行われた白江・白村江
 ↓↑       は錦江と推定・・・
 と
 「豊の国(豊前国・豊後国)」
       ・・・大分・・・宇佐神宮・・・新羅
 を制圧
 倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
 朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
 近江毛野軍の進軍をはばんで交戦
 磐井は
 「近江毛野」・・・近江の毛野
 ↓↑    ・・・毛野(けの・けぬ)
          古墳時代の地域・文化圏の一
          群馬県と栃木県南部を合わせた地域
          史書には「毛野」の名称自体は無い
         「上毛野(かみつけの)」
         「下毛野(しもつけの)」
          の名称が記録され
 ↓↑       これらは「毛野」が分かれたもの?
 に
 「お前とは同じ
  釜の飯を食った仲だ。・・・釜の飯=鎌(足・子)のメシ?
  お前などの指示には従わない」
 と言ったとされ
 ヤマト王権では
 平定軍の派遣について協議し
 継体天皇が
 大伴金村
 物部麁鹿火
 巨勢男人
 らに将軍の人選を諮問し
 物部麁鹿火
 が推挙され
 同年八月一日
 麁鹿火
 が将軍に任命された
 528年十一月十一日
 磐井軍
 と
 麁鹿火
 率いるヤマト王権軍が
 筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)
 にて交戦
 磐井軍が敗北
 「日本書紀」によると
 磐井は物部麁鹿火に斬られた
 『筑後国風土記』逸文には
 磐井が
 豊前の
 上膳県へ逃亡し
 その山中で死んだ
 (ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)
 と記録
 同年十二月
 磐井の子
 筑紫葛子
 は連座から逃れるため
 糟屋(福岡県糟屋郡付近)
 の
 屯倉(みやけ・トンソウ)
 をヤマト王権へ献上し
 死罪を免ぜられた・・・
 乱後の
 529年三月
 ヤマト王権(倭国)は再び
 近江毛野
 を任那の安羅へ派遣し
 新羅との領土交渉を行わせた
 ↓↑
 『筑後国風土記』逸文
 交戦の様子とともに
 磐井の墓に関する記事が残され
 『古事記』は
 筑紫君石井(いわい)・・・訓む、意詞易(異)
 が
 天皇の命に従わないので
 天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)
 大伴金村
 を派遣して
 石井を殺害させたと記録
 『国造本紀』に
 磐井と新羅の関係を
 示唆する記述がある・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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