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zoom RSS 漢字の熟語がホトンドが二文字であるコトのワケ

<<   作成日時 : 2017/07/22 22:17   >>

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 ・・・スゴイ豪雨・・・「度量衡」の漢字に拘っていたら「衡=コウ=XYZ・・・」の「音訓」の同音異字漢字はもとより、「字面」も「度量衡=ドリョウコウ=説両行」などと「変換」したくなる・・・「平行」ではなく「両行」である・・・「両行=古代中国の『荘子』に出てくる言葉・仏教の説く中道に似た言葉・智慧と慈悲のどちらにも偏らないことを意味?」ですか・・・ここは水曜日と土曜日がゴミ収集車の巡回日である・・・20リットル容量の燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミのビニール袋は「一袋=80円」である・・・ゴミの分別、「偏らずにはいられない」が、認識する対象存在、対象状況、対象情況を認識論的に展開すれば、「矛盾」の分別の「相対化」、そして無分別の「一体化」は「観自在(対象を観て判断するの自分自身の認識、思惟、判断)」である、と云うことだろう・・・
 「観自在菩薩=観世音菩薩」・・・
ーー↓↑ーー
 観自在菩薩
 アヴァロキテシュヴァラ
 Avalokiteśvarabodhisattva
 ↓↑
 「観音経」などで説かれる菩薩
 この名称は
 「鳩摩羅什(くまらじゆう)」の旧訳
 「玄奘(げんじよう)」の新訳では
 「観自在菩薩」
 「衆生(しゆじよう)の声を聞き
  その求めに応じて救いの手をさしのべる
  慈悲深い菩薩」
 「勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍」
 住所は「補陀落(ふだらく)」
 日本では「那智山(なちのやま)」
 観音=施無畏者(せむいしや)=円通大士=救世円通

 観音菩薩(かんのん ぼさつ)
 (Avalokiteśvara)
 仏教の菩薩の一尊
 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
 観自在菩薩(かんじざいぼさつ)
 とも
 救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)
 など多数の別名がある・・・
 ↓↑
 エローラ石窟群、サールナート
 などインドの仏教遺跡においても
 観音菩薩像と思しき仏像が発掘
 ゾロアスター教において
 アフラ・マズダーの娘とされる
 女神アナーヒター
 や
 スプンタ・アールマティ
 との関連が指摘されている

 サンスクリット語
 の
 アヴァロキテシュヴァラ(Avalokiteśvara)を
 玄奘は
 「見下ろす(avalokita )」
 と
 「自在者(īśvara)」
 の合成語と解釈し
 「観自在」と訳した
 鳩摩羅什訳は
 「観世音」であったが
 玄奘は
 「古く光世音
  観世音
  観世音自在」
 などと漢訳しているのは
 全てあやまりである、と・・・
 ↓↑
 「観世音」という訳語
 「観音経(法華経・観世音菩薩・普門品第二十五)」
  趣意を取って意訳・・・
 中央アジアで発見された
 古いサンスクリットの『法華経』では
 「アヴァロキタスヴァラ(avalokitasvara)」
 となっており、
 「見下ろす(avalokita)」+「音・声(svara)」
 と解され
 古訳では
 『光世音菩薩』の訳語もあることなどから
 異なるテキストだった可能性・・・
 ↓↑ 
 「観音菩薩」という呼び名
 一般的には
 「観世音菩薩」の略号と解釈
 唐代に「世」の文字が
 二代皇帝
 太宗
 李世民
 の名(諱)の一部であったため
 避諱により唐代は「世」の文字は使用できなくなった
 そのため
 「観音菩薩」となり、
 唐滅亡後も、この名称が定着・・・
 日本語の「カンノン」は「観音」の
 「呉音読み」であり、
 連声によって
 「オン」が「ノン」になった・・・
 ↓↑
 「六道の衆生を済度する六体の観音」
 「摩訶止観」では
 大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠
 をあげる
 「密教」では
 聖観音・千手・馬頭・十一面・准胝、または不空羂索・如意輪
 ↓↑
 六観音=天台宗の「摩訶止観」に説く
     六道の煩悩を破砕する
     大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠
     の六体の観音
ーー↓↑ーー
 藤原三代(清衡・基衡・秀衡)
ーー↓↑ーー
 長治二年(1105年)
 清衡は
 平泉に
 最初院(中尊寺)を建立
 永久五年(1117年)
 基衡が
 毛越寺(もうつうじ)を再興・・・毛を越えるジ?
ーーーーー
 「午(うま・ゴ)」=「ノ一𠂉(髪挿し)」+「十」
ーー↓↑ーー
 「源の義の経」って?
ーー↓↑ーー
 搦手軍の
 源義経
 鵯越(ひよどりごえ)で・・・「鵯=卑+鳥」+「越=走+戉」
                    戉=まさかり=鉞
 軍を二分
 安田義定
 多田行綱
 らに大半の兵を与えて
 通盛
 教経
 の1万騎が守る
 夢野口(山の手)へ向かわせ
 義経は
 70騎で山中の路を西へ転進
 猟師が
 鵯越は到底人馬は越えることのできぬ
 難路であると説明
 義経は鹿はこの道を越えるかと問い
 冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた
 義経は
 「鹿が通えるならば、馬も通えよう」
 と言い案内するよう求めたが
 老猟師は自分は歳をとりすぎているとして
 息子を紹介
 義経はこの若者を
 郎党に加え
 鷲尾三郎義久・・・鷲の尾の三郎(さぶろう)
              義久(ギキュウ)
 と名乗らせた・・・
 義経ら70騎は
 平氏の
 一ノ谷
 陣営の裏手に出
 断崖絶壁の上で
 平氏は山側を警戒していなかった
 ↓↑
 生田の戦い
 二月七日払暁
 義経の部隊から抜け出した
 熊谷直実・直家父子
 と
 平山季重
 らの5騎が
 忠度の守る
 塩屋口の西城戸に現れ
 名乗りを上げて合戦が始まった
 平氏は最初は少数と侮っていた、が
 兵を繰り出して
 直実らを取り囲み
 討ち取りかけた時に
 土肥実平
 率いる7000余騎が駆けつけて激戦・・・
 午前6時
 知盛
 重衡・・・・重なる衡(ひら・コウ)
 ら
 平氏軍主力の守る東側の
 生田口の陣の前には
 範頼率いる
 梶原景時、畠山重忠
 以下の大手軍5万騎が布陣
 範頼軍
 は激しく矢を射かけるが
 平氏は壕をめぐらし、
 逆茂木(さかもぎ)
 ↓↑ ・・・敵の侵入を防ぐために、先端を
       鋭く尖らせた木の枝を
       外に向けて並べ結び合わせた柵(さく)
       さかもがり
       鹿砦(ろくさい)
       鹿角砦(ろっかくさい)
       敵の侵入を防ぐため
       荊(茨・棘・いばら)などの
       トゲのある木の枝を並べて垣にしたもの
       溝の中から枝が付いたままの木が
       幾重にも重ねたもの
       溝の中に杭を打ち込み
       縦木、 横木、斜めに枝のついたままの
       木(逆茂木)を絡ませ
 ↓↑    溝を埋め戻して固定する構造
 を重ねて
 陣を固めて待ちかまえ
 平氏軍も矢を射かけて応戦
 平氏軍は2000騎を繰り出し
 白兵戦を展開
 範頼軍は
 河原高直、藤田行安
 らが討たれ、死傷者が続出
 そこへ
 梶原景時・景季父子が
 逆茂木を取り除き、
 ふりそそぐ矢の中を突進して
 「梶原の二度懸け」
 ↓↑  ・・・梶原景時=鎌倉幕府の御家人
     石橋山の戦いで源頼朝を救って
     重用され侍所所司、厩別当
     和歌を好み、武家百人一首にも選出
     都の貴族からは
     「一ノ郎党」
     「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されいた
     源義経と対立し頼朝に讒言した
     梶原景時の変
     正治元年十月二十五日
     (1199年11月15日)
         〜
     正治二年一月二十日
     (1200年2月6日)
     源頼朝死後
     梶原景時が御家人
     六十六名の
     連判状によって
     幕府から追放
     一族が滅びた・・・
     子供
     梶原景季
     梶原景高
     梶原景家
     ・・・「景」の漢字名を有する人物
      「大庭景親・大庭景義」
        「景行天皇」?
 ↓↑   「高橋景保」?
 と呼ばれる奮戦を見せた
 義経と分かれた
 安田義定
 多田行綱・・・通称、六条蔵人・多田太郎・多田蔵人
        伯耆守・摂津国多田荘が本拠
        1177年
       「鹿ヶ谷(ししがたに)事件」で謀議に加わり
        平清盛に密告、内通
        寿永二年(1183)
        摂津・河内で反平氏勢力を組織
        後、
        西海に逃亡した「源義経」を
        摂津河尻で攻撃した
 らも
 夢野口(山の手)を攻撃
 生田口、塩屋口、夢野口で激戦
 平氏は激しく抵抗し
 源氏軍を阻んだ
 ↓↑
 逆落とし
 精兵七十騎を率い
 一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った
 義経は戦機と見て坂を駆け下る決断
 『平家物語』によれば
 義経は馬2頭を落とし
 1頭は足を挫いて倒れるが
 もう1頭は無事に駆け下った
 義経は
 「心して下れば馬を損なうことはない。
  皆の者、駆け下りよ」
 と言うや先陣となって駆け下った
 坂東武者たちもこれに続いた
 二町ほど駆け下ると、
 屏風が立ったような険しい岩場となっており、
 坂東武者も怖気づくが、
 三浦氏の一族
 佐原義連が
 「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」
 と言うや、真っ先に駆け下り
 義経らもこれに続き
 大力の
 畠山重忠
 は馬を損ねてはならじと
 馬を背負って岩場を駆け下った
 『吾妻鏡』によれば
 畠山重忠は範頼の大手軍に属しており
 義経の軍勢にはいない・・・
 ↓↑
 崖を駆け下った義経らは
 平氏の陣に突入攻撃
 一ノ谷の陣営は大混乱
 義経はそれに乗じて方々に火をかけ
 平氏の兵たちは海へと逃げ出した
 ↓↑
 『吾妻鏡』では
 「源九郎(義経)は
  勇士七十余騎を率いて、
  一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」
 「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて
  鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)
  において攻防の間に、
  (平氏は)商量を失い敗走、
  或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、
  或いは船で四国の地へ向かおうとした」
 とあり、
 義経が70騎を率い、
 険阻な
 一の谷の背後(鵯越)から
 攻撃を仕掛けた
 これが「逆落し」を意味するとされている・・・
 ↓↑
 九条兼実の日記『玉葉』では
 搦手の義経が
 丹波城(三草山)を落とし
 次いで
 一ノ谷を落とし
 大手の
 範頼は浜より福原に寄せた
 多田行綱は山側から攻めて
 山の手(夢野口)を落とした。
 と戦況を書き残している
 義経が
 一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、
 逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。
ーーーーー
 ・・・???・・・源九郎(義経)の最後・・・
 頼朝と対立し朝敵とされ
 難を逃れ再び
 藤原秀衡を頼ったが
 秀衡の死、
 頼朝の追及を受けた
 当主
 藤原泰衡
 に攻められ、
 平泉の
 衣川館で自刃
  ↓↑
 藤原秀衡
 は
 関東以西を制覇した
 頼朝の勢力が
 奥州に及ぶことを警戒し
 義経を将軍に立てて
 鎌倉に対抗しようとしたが
 文治三年(1187年)十月二十九日病没
 頼朝は
 秀衡の死を受けて後を継いだ
 藤原泰衡に
 義経を捕縛するよう
 朝廷を通じて強く圧力をかけ
 義経追討を自身が受け
 奥州に攻め込めば
 泰衡と義経は
 秀衡の遺言通り
 共闘する怖れがある
 泰衡に義経を追討させることで
 2人の間に楔を打ち
 奥州の弱体化を図った
 「亡母のため五重の塔を造営すること」
 「重厄のため殺生を禁断すること」
 を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し
 頼朝自身が義経を追討することができない
 表面的な理由としたかった・・・
 義経は
 文治四年(1188年)二月
 出羽国に出没
 鎌倉方と合戦
 文治五年(1189年)一月
 義経が
 京都に戻る意志を書いた手紙を持った
 比叡山の僧が捕まるなど
 再起を図った
 義経の行動に関しては、
 度重なる追討要請により
 泰衡
 との齟齬が激しくなったために
 京都へ脱出(帰京)しようとしていた・・・
 義経
 と
 泰衡
 の駆け引き、葛藤・・・
 泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈し
 「義経の指図を仰げ」
 という父の遺言を破り、
 閏四月三十日
 500騎の兵をもって
 10数騎の義経主従を
 藤原基成の
 衣川館に襲った(衣川の戦い)
 義経の郎党たちは防戦し
 ことごとく討たれ
 館を
 平泉の兵に囲まれた義経は
 一切戦うことをせず
 持仏堂に籠り、
 正妻の
 郷御前
 と
 4歳の女子を殺害
 後
 自害
 享年31
ーーーーー
 ・・・???・・・苦労半眼偽計のヨシツネ・・・蝦夷に渡り、樺太、そして中国東北部、満州に入り「ジンギスカン=成吉思汗=モンゴル帝国を建てたチンギス・ハン(1162〜1227)」になった・・・???・・・「蒼き狼」・・・

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