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<<   作成日時 : 2017/05/02 01:17   >>

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・・・「もののべ の あらかい(ひ)」・・・「あらがう=抗う・争う・諍う・従わないで争う・抵抗する・逆らう・負けずに言い返す・言いたてる・言い争う・歯向う ・闘う・仇する・手むかう・対敵・楯つく・刃向かう・反抗・戦う」・・・「モノを述べる新改(あらかい・シンカイ・あらかひ(丫羅化比・阿良可否・阿羅甲斐)」・・・「もののべ の あらかび」・・・「モノ述べる鴉等-化尾、蛙等-掛備(歌靡=かび=黴・霉・華美」・・・「依和意の覧」・・・「神武天皇=磐余比古(いわれびこ・ガンヨヒコ・ガンヨビコ)」・・・「磐井=いわい=斎・祝い=岩居」・・・「委和意(ゐわい・ヰワヒ)」・・・「漢委奴國王」=「建武中元二(57)年、光武帝が倭奴国王に金の印綬を与えた」、「後漢書」に「建武中元二年、倭の奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」、「中元二年(西暦57年)正月、倭の奴国が朝賀の式に参列する使者を後漢の都洛陽に派遣。後漢の光武帝(劉秀)は冊封の印綬を賜った。光武帝はその一ヶ月後に崩御」・・・
 「福岡藩の公文書の中に、天明四年、志賀島、百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」、「黒田家が100年近く所蔵」・・・「漢委奴国王金印発光之處と大書された大正十一年(1922)建立の石碑」がある・・・
ーー↓↑ーー
 金印の発見
 筑前国
 那珂郡
 志賀島村
 東南部(福岡県福岡市東区志賀島)
 1784年4月12日発見とする説・・・
 ↓↑
 江戸時代の
 天明四年二月二十三日(1784年4月12日)
 水田の耕作中に
 甚兵衛という地元の百姓が偶然発見
 実際の発見者は
 秀治、喜平という百姓で
 甚兵衛はそのことを
 那珂郡奉行に申し出て提出した人物・・・
 ↓↑
 金印は土に埋もれていたのではなく、
 巨石の下に隠されていた。
 発見された金印は、
 郡奉行を介して福岡藩へと渡り、
 儒学者の
 亀井南冥(かめい なんめい)・・・亀の井、南の冥?
 ↓↑   仮名  難迷(ナンメイ=何名・納名(女意)?
 ↓↑   寛保三年八月二十五日(1743年10月12日)
        〜
      文化十一年三月二日(1814年4月21日)
      儒学者、医者、教育者、漢詩人
      筑前国-姪浜(めいのはま・福岡市)生れ
      諱は魯(ロ・魚+日)
      字は道載・・・道に載せる?
      通称は主水
 ↓↑   南冥はその号
      安永七年(1778年)
      福岡藩主
      黒田治之・・・黒の田、治の之
             句賂の傳、字(時・事・示)のシ?
      に儒医として採用され
      天明四年(1784年)
      治之の遺言(1781年8月急死)で、
      南冥は新設された
      二つの学問所の一方の
      甘棠館の・・・・甘棠館(カントウカン)
      ↓↑      甘い棠=山梨(やまなし)
                  唐梨(からなし)
                  小林檎(こりんご)
                  バラ科の落葉高木
             「甘棠」=棠棣(トウテイ)
       ↓↑         海棠・沙棠(サトウ)
      祭酒(学長)に就任
      志賀島の
      金印(倭奴国王印)が発見され
      南冥は
     『後漢書』東夷伝を引用して金印の由来を説明
     『金印弁』を著す
      一方の
      修猷館の学長に就任していた
      竹田定良(朱子学者)は
     『金印議』を著したが、
      南冥は、
      金印発見の報と印文並びに鑑定書を
      全国の学者と知人に送り、
      上田秋成
      や
      藤貞幹
      などが影響を受け金印研究を行った・・・
 ↓↑   ↓↑
      寛政二年(1790年)
      寛政異学の禁
      幕府の昌平坂学問所で
      朱子学以外の学問が禁止
      修猷館派の攻撃を受け
      寛政四年(1792年)
      亀井南冥は
      甘棠館祭酒を解任され失脚
      蟄居禁足処分
      寛政十年(1798年)
      甘棠館が焼失
      甘棠館廃止
      教官は解職
      生徒は全て
      竹田定良の
      修猷館に編入された
 ↓↑   ↓↑
      亀井南冥
      息子の
      昭陽を中心に私塾として
      亀井塾を再開
      南冥・昭陽父子の下に日本各地から
      弟子が訪れ、多くの人材が育った
      文化十一年(1814年)三月二日
      自宅の失火により死去
      猛火の中で端座して焚死した・・・
      享年72・・・
 ↓↑
 亀井南冥は発見された「金印」を    
 『後漢書』に記述された金印と、同定した・・・
 なお、
 糸島市の
 細石神社・・・細石神社(さざれいし-じんじゃ)
 ↓↑    「神体は漢字から小石(細石)の意味だが
        元々は佐々禮石で巨石」・・・?
        細(糸+田)の石だろう・・・
 ↓↑     福岡県糸島市にある神社
        糸島市三雲
        東経130度14分42.21秒
        北緯33度32分1.57秒に鎮座
        古くは
       「佐々禮石神社」と表記・・・佐々の禮の石?
              佐々 成政(さっさ なりまさ)
              尾張国高田寺にあった
              大永五年(1525年)銘の梵鐘に、
              檀那として
             「比良佐々
              下野守・・・しもつけのかみ
              藤原貞則」
              と刻銘、藤原氏を名乗っていた?
        祭神は・・・オオヤマツミ
             (大山積神、大山津見神、
              大山祇神、和多志大神、酒解神)
        大山祇神・大山津見神の娘の
        磐長姫・・・・・嫁にすれば
                醜(酉鬼)女だが夫は長寿?
        と
        木花開耶姫・・・嫁にすれば
        木花之佐久夜姫・美人だが夫が短命?
                このハナシ砂宮拠るヒメ?
        の姉妹二柱
 ↓↑      ↓↑
        元禄八年の「細石神社御縁起」に
        天正十五年(1587年)
        豊臣秀吉により、神田没収・・・ナゼ?
         ↓↑
        1587年7月24日(天正十五年六月十九日)
        豊臣秀吉がバテレン追放令を発令
        豊臣秀吉、九州を平定
        聚楽第を完成
        11月1日(天正十五年十月一日)
        千利休らを茶頭に北野大茶湯を開催
 ↓↑      ↓↑
        猿渡 信光(さるわたり のぶみつ)
        天文三年(1534年)
          〜
        天正十五年四月十七日(1587年5月24日)
        島津氏の家臣
        官位は掃部兵衛
        越中守
        先祖は
        平高望
        父は
        猿渡信資
        子は
        猿渡信豊
        猿渡与三
        島津氏に仕え、
        支配領である
        加世田や羽月の
        地頭職を歴任
        肥後国侵攻や
        天正十二年(1584年)
        肥前国の龍造寺氏との
        沖田畷(肥前-島原半島=長崎県)の戦い
        などで千人の兵を率い
         「畷=田の中の細道・あぜ道
            なわてじ・なわて道
            まっすぐな長い道
            湿地帯の中に延びた小道」
        かなりの軍権を有した・・
        この合戦で嫡子の
        彌次郎
        が戦死
 ↓↑     ↓↑
        天正十五年(1587年)
        豊臣秀吉の九州征伐軍との戦いの
       「根白坂の戦い」で戦死・・・
 ↓↑     ↓↑
 「細石神社」には
 「漢委奴國王」の
  金印が宝物として伝わっていたが
  江戸時代に
  外部に流出したとの伝承(口伝)・・・
ーー↓↑ーー
 物部麁鹿火・・・麤=鹿+鹿+鹿・・・666・六六六
  (麤鹿火・荒甲・あらかび・あらかい)
 生年不詳〜宣化天皇元年(536年)七月
 古墳時代の豪族
 父は
 物部麻佐良
 母は
 須羽 直(すわのあたい)女・妹古・・・諏和の直
 子は
 石弓若子(いわゆみわくご)・・・石の弓
 毛等若子(もとわくご)・・・・・毛の等
 影姫(かげひめ)
 ↓↑
 麁鹿火の
 大連初任の時期は不明
 『日本書紀』の
 武烈即位前紀に大連
 武烈天皇の崩御後、
 継体天皇の・・・戦後、
 ↓↑      現皇室は
         第26代
         継体天皇を初代とする・・・
         品太(ほむだ)王=応神天皇
         の五世(いつせ)の
         孫(みこ)、
 ↓↑      袁本杼(をほどの)命、
         伊波禮(いわれ)の・・・磐余
         玉穂宮に坐しまして、
         天の下治らしめしき
         西暦507年に58歳で即位
         男大迹王(をほどのおおきみ)・日本書紀
         袁本杼命(をほどのみこと)・古事記
         雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)
         乎富等大公王(をほどのおおきみ)
 ↓↑      彦太尊(ひこふとのみこと)
 擁立を働きかけ、
 その即位後に
 大伴金村と共に
 再び大連に任ぜられた
 継体天皇六年(512年)十二月
 百済へ
 任那
 四県の割譲の際、
 麁鹿火は
 百済の使者に
 割譲の容認を伝える
 宣勅使となるが、
 妻からの諫めにより考えを改め、
 病と称してその役を辞退
 継体天皇二十一年(527年)六月
 九州北部で反乱を起こした
 筑紫国造
 磐井の
 征討将軍に就任
 天皇から
 筑紫以西の統治を委任
 翌年十一月
 筑紫三井郡にて
 磐井を破って処刑
 磐井の乱を平定
 その後
 安閑天皇・・・・安閑天皇(アンカンてんのう
 ↑↓      広国押建金日命(古事記)
         広国押武金日尊(日本書紀)
        (ひろくにおしたけかなひのみこと)
         継体天皇の皇子
           勾大兄皇子(まがりのおおえ
                 まがりのおいねのみこ)
         母は
         尾張
         目子(めご)媛
         皇后は
         春日山田皇女
         都は
         大和
         勾金橋(まがりかなはし)宮
 ↑↓      ↓↑
         雄略天皇十年?(466年?)
          〜
         安閑天皇四年十二月十七日(536年1月25日?)
         第二十七代天皇
        (在位は
         継体天皇二十五年二月七日(531年3月10日?)
          〜
         安閑天皇四年十二月十七日(536年1月25日?)
         66歳で即位、4年後崩御
         41箇所の屯倉の設置
         531年
 ↑↓      辛亥の変(シンガイのヘン)
 ↑↓      継体・欽明朝の内乱
     534年
     甲寅の年
     武蔵国造の乱・・・笠原氏の内紛
     (むさしのくにのみやつこのらん
      むさしこくぞうのらん)
     武蔵国=无射志(むざし)?・・・九州?
         胸刺 (むなさし・むさし)国造
         の記載
     武蔵国造の
     笠原直-使主(かさはらのあたい おみ)
     と同族の
     笠原直-小杵(おき)は、
     武蔵国造の地位を巡って争い
     小杵は、
     上毛野-君-小熊(かみつけののきみ おぐま)
     の助けを借り、
     使主を殺害しようとし、
     小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、
     朝廷に助けを求めた。
     朝廷は使主を
     武蔵-国造
     とすると定め、
     小杵を誅した。
     使主は
     横渟・橘花・多氷・倉樔
     の4ヶ所を朝廷に
     屯倉として献上した
     ↓↑
     豊國=豊前・豊後・・・福岡、大分(おおいた)懸
     ↓↑
     三毛郡(みけのこおり)
    (上毛郡=こうげぐん?
     下毛郡=しもげぐん?)
     ↓↑  後に
         山国川を境に・・・サンゴクセン?
         上(こう・かみ)三毛郡
         と
         下(した・しも)三毛郡
         に分けられ、
         さらに
         上毛郡
         下毛郡
         となった
     ↓↑
     豊国二国の郡
     豊前国
     田川郡
     企救郡・・・・企てを救う?
     京都郡・・・・ナゼ、京都なのか?
     仲津郡・・・・福沢諭吉
     築城郡
     三毛郡(上毛郡・・・毛野国=かみつけ=咬み付け
        群馬懸旧国名=上野国(こうずけのくに
                  かみつけぬのくに
                  かみつけののくに
                  かみつけのくに)
               令制国の一
               東山道に属し
               常陸国(ひたちのくに)
               上総国(かづさのくに)・千葉県
               とともに親王が国司を務める
               親王任国
               国府の実質的長官は
               上野介(こうずけのすけ)
         下毛郡・・・下野=しもつけ=史摸椄懸
     宇佐郡
     ↓↑
     豊後国
     日田郡
     玖珠郡 直入郡 大野郡
     海部郡
     大分郡 速見郡
     国東郡
 ↑↓  ↓↑
     古代には
     三毛郡(みけのこおり)
     後に山国川を境に
     上三毛郡
     下三毛郡
     に分けられ、
     さらに
     上毛郡
     下毛郡
     となった
     山国川を挟んで隣接する
     旧下毛郡地域(大分県中津市)
     とは文化・歴史的に関係が深い
     中津市(旧・下毛郡)
     と経済・文化面などで一体・・・
 ↑↓     ↓↑
 ↑↓     蔵王権現の祭神=安閑天皇を祭神
 宣化天皇の代
 にも
 大連を務め、
 宣化天皇元年(536年)七月に死没
 ↑↓
 『古事記』
 物部荒甲(あらかい)の表記で記述
 金村と共に
 竺紫君石井(磐井)討伐
 『新撰姓氏録』によると
 後裔に
 高岳首らの氏族
 ↑↓
 磐井の乱(いわいのらん・バンイのラン)・・・蛮夷のラン?
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野が
 率いるヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君磐井がはばみ、
 528年(継体二十二年)十一月十一日
 物部麁鹿火によって鎮圧
 ↑↓
 磐井
 生年不詳
 〜
 継体天皇二十二年(528年)十一月十一日
 筑紫磐井(つくし の いわい)
 6世紀前半(古墳時代後期)の豪族
 カバネは君
 『日本書紀』では
 「筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこ いわい)」
 『古事記』では
 「竺紫君石井(つくしのきみいわい)
 ↑↓
 磐井の乱
 継体二十一(527)年
 朝鮮に出征しようとする
 近江毛野の軍勢を
 筑紫の
 国造
 磐井が阻止
 磐井は翌年
 物部麁鹿火
  (麤鹿火 (あらかび)
 大伴金村
 らに討たれ、
 その子の
 葛子も降伏
 ↑↓
 磐井の乱(いわいのらん)
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野率いる
 ヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君磐井がはばみ
 528年(継体二十二年)十一月十一日
 物部麁鹿火
 によって鎮圧された反乱
 ↑↓
 磐井の乱(いわいのらん)
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君磐井がはばみ、
 528年(継体二十二年)十一月十一日
 物部麁鹿火によって鎮圧
 朝鮮半島南部の利権を巡る
 ヤマト王権と、
 親新羅だった
 九州豪族との主導権争・・・
 ↑↓
 磐井の乱
 『日本書紀』
 『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)
 『古事記』(継体天皇段)
 『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)
 にも簡潔な記録・・・
 ↑↓
 『筑後国風土記』には
 「官軍が急に攻めてきた」・・・佐賀の乱?
 『古事記』には
 「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」
 ↑↓
 『日本書紀』
 527年(継体二十一)六月三日
 ヤマト王権の
 近江毛野は
 6万人の兵を率いて、
 新羅に奪われた
 南加羅
 喙己呑
 を回復するため、
 任那へ向かって出発
 計画を知った新羅は、
 筑紫(九州地方北部)の
 磐井(日本書紀・筑紫国造磐井)へ贈賄し、
 ヤマト王権軍の妨害を要請した・・・
 磐井は挙兵
 火の国(肥前国・肥後国)
 豊の国(豊前国・豊後国)
 を制圧
 倭国と朝鮮半島とを結ぶ
 海路を封鎖
 朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、
 近江毛野軍の進軍をはばんで交戦
 磐井は
 近江毛野に
 「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。
  お前などの指示には従わない」
 と言った・・・
 ヤマト王権では平定軍の派遣
 継体天皇が
 大伴金村
 物部麁鹿火
 巨勢男人
 らに将軍の人選を諮問し
 物部麁鹿火が推挙され
 同年八月一日
 麁鹿火が将軍に任命
 ↑↓
 528年11月11日
 磐井軍
 と
 麁鹿火率いるヤマト王権軍が、
 筑紫三井郡(福岡県小郡市・三井郡付近)で交戦
 磐井軍が敗北
 「日本書紀」では
 磐井は
 物部麁鹿火に斬られた・・・
 「筑後国風土記・逸文」には
 磐井が
 豊前の
 上膳県へ逃亡し、
 その山中で死んだ
 (ヤマト王権軍はその跡を見失った)と記録
 同年十二月
 磐井の子、
 筑紫葛子は
 連座から逃れるため、
 糟屋(福岡県糟屋郡付近)の
 屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた
 ↑↓
 乱後
 529年三月
 ヤマト王権(倭国)は
 再び
 近江毛野を
 任那の
 安羅へ派遣し、
 新羅との領土交渉を行わせた・・・
 ↑↓
 「筑後国風土記・逸文」には
 交戦の様子とともに
 磐井の墓に関する記事が残されている
 「古事記」には
 筑紫君石井(いわい)が
 天皇の命に従わないので、
 天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)
 大伴金村を派遣し
 石井を殺害と記録
 「国造本紀」には
 磐井と新羅の関係を示唆する記述・・・
 ↑↓
 戦後、北部九州に見られる
 石製表飾(石人石馬)
 や
 装飾古墳などの
 分布・消長の状況が判明
 九州広域にわたって磐井との関連・・・
 ↑↓ ↑↓
 依和意(いわい)の覧(ラン)
 ↑↓ ↑↓
 荒海山(あらカイサン、あらカイザン、あらうみやま
     コウカイサン)
 福島県
 南会津郡
 南会津町
 と
 栃木県
 日光市
 の境界に位置する標高1,581 mの山
 二等三角点
 「太郎岳」
 (標高 1,580.4 m)は
 山頂の東北東約90 mに位置する
 ピーク東峰にある。
 福島県側では荒海山
 栃木県側では太郎岳
 江戸時代の文献
 『新編会津風土記』では
 「荒貝嶽(あらかいがだけ・コウバイガク)」
 と表記
 ↑↓
 福島県
 と
 栃木県
 両県の境界を画する
 帝釈山地の東側に位置
 日本海側
 と
 太平洋側を分ける
 中央分水嶺上に位置
 南側は太平洋に注ぐ
 利根川支流、鬼怒川水系の支流群、
 北東側は日本海に注ぐ
 阿賀川、
 北西側は
 阿賀川支流の
 伊南川の支流群の、
 それぞれの源流部
 山頂部は緩やかな三角錐状
 山頂の南西約800 mには、
 次郎岳とも呼ばれる1,560 mの峰がある
ーーーーー
 ・・・???・・・
 「群馬・千葉」=上毛・下毛=上野・下野=「福岡・大分」・・・武蔵・六三四・无射志(むざし)・胸刺(むなさし・むさし)・・・乎御射他(おおいた=於補意多=大分=豊前、豊後)・・・

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